『三つ目の鯰』は…

人の生きざまを決めるものは何だろうか?と考えさせられた。

奥泉光氏の単行本『石の来歴』に収録されているもう一編の小説、『三つ目の鯰』(1992年作品)を読んだ。大学生のサトルは父の死で、月山の見える故郷に帰省した。父が死に埋葬された時から父という人間の人生を考え出す。なぜかといえば、つぶやきのような「遺言」ゆえだ。

「自分が死んだら、焼きあがった骨は墓に納めず、川にでも捨てればよい」

何のことはない、その地では墓に骨壺を入れず、墓の底の土に直接灰を撒くという。何気ない意味のないひと言だが、だんだん川底をさらうように重い意味を帯びてゆく。その物語ぶりは『石の来歴』同様見事であるが、鯰は日常的な舞台立てである分、恐ろしさがより強く感じられる。

続けて発表されたこの2編には通底するところがある。まず人の死である。『石』では戦時の兵士たちの残骸の死と、主人公がそれに祟られる人生がある。『鯰』では父の死から広がる探究がある。第二にはがある。『石』では、死んでゆく上官の目にたかる蛆の描写が凄烈である。『鯰』では、父が三つ目がある鯰を釣り上げたという逸話が挿入される。釣り上げたそれは、こちらを見ていて、ホウホウの体で父は逃げ出したというのだ。村人は一笑に付す。可笑しくもあり怖くもあるその話しが、第三の共通点に到達する。

それは狂気である。両作品とも死したる者の狂気と生きたる者の狂気を描く。

鯰には聖書の言葉を主人公が読むシーンがある。「もしわたしたちが、気が狂っているなら、それは神のためであり、気が確かであるなら、それはあなたがたのためである」

誰もが何かしらの狂気を背負って生きている。その狂気が人の心のどこかに小さな割れ目を作り、やがて裂け目となり、ついには運命としてその人を支配をする。神はわざわざそういう狂気をつくりたもうた、信じなさい、受け容れなさい、というのだ。

この世は狂気であり滑稽である。狂気というアンコをおおう「現実社会」という薄皮もまた狂気なのである。どう生きるかという問題は、どの狂気を信じるか、という問題に過ぎないのかもしれない。

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肉じゃがに狂喜しました…というほどの味じゃない(笑)

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