雫のごとき人生

今、ぼくの人生は暗闇だが、暗闇から這い上がって輝いた人がいる。

1911年宮城県生まれの女性である。二十歳で上京して結婚、二人の娘をもうけた。だが1945年3月10日の東京大空襲で、家族は逃げ惑う大衆に踏みつぶされた。気がつくと夫も娘も居なかった。妻は上野の山を数年さまよった。やがて婦人保護施設に収容されたがそこは底辺だった。そこから這い出るために日雇いで働いた。ようやく貯めたお金で13坪の土地を川口に買った。トタンで家を建てた。また働いて貯めて二室にして一室を貸した。働いて働いて二階建てにして三室を貸した。コツコツ貯めた。そして45才のときひらがなを思い出して、路上に捨てられていた辞書を拾って、文字を覚え出した。日記を書き出した。労働省の『労働者の作文コンクール』に応募すると、労働大臣賞を受賞した。生まれて初めて人に認められたことに狂喜した。そして1976年、65才で処女作『荒野に叫ぶ声』を出版。やがて貯金は2800万円になり、1987年にNHKに寄付をして「銀の雫文芸賞」を創設した。

「あたしは幸せですよ、書くってことがありますからね」

何年越しかで、1996年86才の作家雫石とみにインタビューに成功した山根基世さん(元NHKアナウンサー)が講演や文章で広めている実話である。アナウンサーがインタビューに訪れると、六畳一間の部屋には、仏壇にちゃぶ台に借り物のベッド、アルマイトのヤカンと数枚の衣類くらいしかなかった。片目が視力がなく、畳の上にノートを広げて、額を擦り付けるようにして書いていたそうだ。没年は2003年だから、長寿だった。それは自分らしく生き抜いたからだろう。

銀の雫文芸賞には、今年もまた、高齢者の人生の喜びや悲嘆を赤裸々に描いた作品が応募されている。すごいことである。

ぼくは今、暗闇である。底辺から出直そうにも、誠心誠意尽くしても、まだ明るくならない。裏目にでるばかりである。でも住処は六畳二間以上あるし、心から愛する人がいる。その人を幸せにする意地がある。悲嘆にくれるぼくを慰める相棒の猫もいる。パソコンからぼくが目を離すと「遊んで」と擦り寄ってくるから頭がいい。白内障を治した目を凝らして文を書いている。書くことがなかったら死んでいた。

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