文道

naomiさんの写真展『start or restart』(アートマルシェ神田)は彼女にとって人物写真展への挑戦でもあった。展示の半分に人の写る。naomi=風景写真家というイメージを壊したー

「ジャンルにこだわるわけじゃないので…」とnaomiさんは笑う。こだわってはいない。ある人は風景を撮れ、ある人は人物もいい、と言うのも自然体で受け止める。

「商業写真は撮らないし、売り込みもしません。自分に向いていませんから」

それを聞いて恥ずかしくなった。ぼくはビジネス文の企画を売り込んだことがある。柄にもなく、身の丈にも合わないのは何となくわかっていたのに…。

ぼくにもジャンルがない。自動車評論家でも音楽評論家でもないし、食通でもないし、文具王子でもない。温泉研究家でもIT解説者でもない。しばらくやっていたマーケティングライター/コンサルタントというのも、マーケティングってのが、実にぼんやりである。

寄れば大樹というように、寄れるジャンルがあれば、書くのも主張もわかりやすい。スタートラインからコースがある。ノージャンルよりも楽だ。でも何の因果か「○○ジャンルの専門家」と名乗れずにこれまできた。

それも手伝ってか、ぼんやりしたことを書きすぎてしまって、ビジネスメディア誠の連載は今年いっぱいで終了する。前に連載していた印刷月刊誌は休刊し、今度はウエブで書かなくなると、もはやライターとさえ名乗りにくい。

おお、肩書きがなくなる…。

ナニガシ何某。剣術家なら○○流派の△△でござる。あるいはSE、コンサルタント、編集者、店長…と肩書きは便利である。世間に通じる肩書きは、面対する相手を安心させる。相手は目の前の人のなんたるかを詮索する必要がないのだ。それが個人名だけとなると、まるで落選中の政治家である。あの名前がトテツモナクでっかい名刺(笑)。

そういえば政治家こそジャンルにこだわる生き物である。民主だの自由だの社会だの共産だのはまだしも、“国民の生活”、“きづな”、“減税”、威信いや“維新”だとか…。なんじゃそれ。看板がないと政治ってできないの?

宮本武蔵は(またもや武蔵でスマン)剣術から剣道を志した。剣は人を殺めるため、戦うためにあるのではなく、平和に暮らす人々の命を守り、助け、勇気づけ、やる気をもたらすためにあると開眼する。あれだけ殺してきて何をか言わんや(笑)でもなんとなくわかる。

文を書くことを「文の道」と言い換えると、見えてくる。

ジャンルにこだわり肩書きにこだわるのは「道」ではなく「術」のような気がしてならない。自分を売りたい、人より抜きん出たいという思いに近くないか。

大義のため、人を動かすため、感動のために書きたい。そういうものを書ければ、ジャンルや肩書きにこだわる必要はない。なぜなら太い道であるから、自ずとそこに名前は付いているものだ。


コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中