『重力と恩寵』から心に沁みたことば

昨日のブログで本書『重力と恩寵』(春秋社2009)を警句集として読むなと書いたが、かくいう自分は本書の書きぬきは8000文字を越えた。本書が書かれた時代背景は戦乱だが、いつの世、どんな地でも通じる普遍性があるのがシモーヌ•ヴェーユの遺したことばである。今朝は心にしみたことばをあげていこう。

愛というものは、欲望が未来に向けられているか向けられていないかによって、純潔でなくなったり、純潔であったりするのである。(愛 P117)

人を愛すると夢をみる。こうありたい、こうしたいと幻想をいだく。夢心地もいいのだがそれはやがて覚める。その時、真の愛があるだろうか?真の愛とは幻想の未来を夢みるものではなく、愛する人を幸せにすることである。そのためにあえて愛する人との間を保つことである。それがようやくわかってきた。

報酬はどんなかたちのものでもエネルギーの低下になる。(真空と埋め合わせ P22)

ゆえに愛の報酬を求めてはならない。愛は報酬をただ与えることである。

人びとのなかでほんものらしい印象を与えるものはかならずといってよいほどにせものであり、ほんものはかならずといってよいほどにせもののような印象を与える。(錯覚 P103)

ヴェーユはシェークスピアの作品では『リヤ王』だけが一流で他は二流だという。そんなものかと、本棚から古い文庫本の『リヤ王』を取って再読した。リヤ王の長女と次女のまことしやかな偽の愛があり、末娘のコーディリアの父を思う真心、殉教の命があった。

感謝はなによりもまず援助を与える人のなすべきことだーもしその援助が純粋なものならば。援助を受けた人も感謝をしなければならないが、それはただ相互性の要求をみたすためである。(愛 P120)

援助の押し付けはいけないーちょうど関西で地震があって思い出した。ある救急救命医が「災害支援はきらいだ」と言っていた。援助に駆けつける者にヒロイズムの押し付けを見るからである。

時間は暴力をふるう。それだけが暴力なのだ。「別の人がおまえを帯で締めつけ、おまえの行きたくないところに連れていくであろう」(ヨハネ福音書21.18)(不幸 P145)

時間が人に暴力をふるうーその最たるものは体形である。人はただ滅びるなら美しいが、滅びる前にぽっちゃりになる。私は今、体形改善中である。

ほかの人間に懇願すること、それは自分だけにあてはまる価値体系をほかの人の心のなかにむりやりおしこもうとする絶望的なこころみである。神に懇願すること、それはその反対で、神の価値体系を自分の魂のなかに迎え入れようとするこころみである。それは自分が結びつけられているもろもろの価値を一心不乱に考えることではさらにない。むしろそれは心のなかに真空を保つことなのである。(対象なしに欲求すること P50)

神の価値体系を自分の中に入れるーここが響いた。文を書くという仕事でいえば、ひとりよがりな感情を書くのではなく、自分を含めて人びとの心にハマるものを書く。それを受け止める心は常に真空でなければならない。

祈りの中でなにか特定のものを得ようと願ってはならない。なぜなら神は普遍的な存在であるから、彼は個人のうちに降りてくる。それは降りるうごきであって、けっして昇るうごきではない。神がうごくのであって、われわれが動くのではない。われわれはこのような関係を神の命令なしに結ぶことはできない。われわれの役割は、普遍的なものの方向にいつも視線を向けていることである。(必然性と従順 P86)

自分の仕事、書くことを思うとき、このことばが沁みる。「書きに行ってはならない」書くことがこちらに降りてこないとならない。何を書くかもヴェーユは教えてくれる。

大衆を主題とした詩のなかに、疲労がうたわれていなければ、そして、疲労のもたらす飢えと渇きがうたわれていなければ、それはほんものであるとはいえない。(労働の神秘 P306)

書くべきことは人びとの苦悩であり苦闘であり、やがてくる昇華である。それに尽きる。

人はいくら美味しいとはいえ、さくらんぼという報酬のために書いてはならぬ。

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