最終章の最後の一行で、人間を書くことの深さを知らされた。
渡辺京二氏の『逝きし世の面影』を読了した余韻で、本書『江戸という幻影』を手にした。本書は『逝きしー』の“影ぼうし”のようなものでもある。
『逝きしー』は江戸末期から明治初期に来日した西洋人の見聞録を元に、「本当の日本像」を書いたものだが、その話の裏を取るために、渡辺氏は江戸時代の日本文献も渉猟した。そこにある逸話は執筆では使えなかったが、江戸という時代の実相を語っている。捨てるにはもったいないし、なにしろ『逝きしー』はベストセラーであり、オマケでさらに儲けてもよかろうと(笑)。そこで逸話にある情愛や奇談、生と死、家業や旅、法律などをまとめた。その中から二つの章を紹介したい。
第5章の「いつでも死ぬる心」では、江戸の人びとはアッサリと命を落とし、生き残る人びともサッパリとそれを受け入れるさまが描かれる。なぜ人は南京花火のようにパッと光ってサッと燃え尽きたか。潔い死生観の底で輪廻転生を信じていたからだ。仏教的な思想ではなく、自然にある万物はすべて「輪にある」という思い。人びとは「人生と社会ならびに自然との調和的呼応」の関係にあった。
なぜそれほど潔かったのか。著者は理由のひとつに「はぐらかし」を指摘する。はぐらかしとは「直視しない」ことである。何を直視しようとしなかったのか。その答えを導くのが「家」である。第6章「家業と一生」で渡辺氏は「徳川期の天職観はあくまで家を基軸として成立した」と書く。
江戸期においては、あらゆる家は家業をもっていた。家業は即その家の社会的責任を示すものであり、それに属する人びとの誇りの出どころでもあった。
指物、桶屋、畳屋、酒屋に蕎麦屋に小料理屋……など、江戸時代は家業を継ぐことは当たり前のことであった。人生を考える必要がなかった。少なくともうわべは愉快に生きればよかった。象徴的なのは嫁の扱いである。家業にふさわしいかどうかで評価され、否定されると「離縁」された。だが文明開化とともに近代社会が到来し、家業を破壊し、仕事を「個人に解放」した。渡辺氏はこう書く。
私はいま、何がゆえに在りし日の文明が滅び、近代にとってかわらねばならなかったかという問題のとば口に立っている。この巨大な問題にひとつの切り口では答えることはできない。だがささやかな切り口をひとつ示せば、人間はいつまでもはぐらかしを続けるわけにはゆかぬのである。
だが西欧的な自我を探すことは幸福なのだろうか。「人はおのれが家の一員であった時には必要としなかった近代的な愛の幻想を追い求め」ざるをえなくなった。悩みは尽きないし、悩んでも悩んでも答えが得られるとは限らないのだ。そこで渡辺氏は第1章「振り返ることの意味」の最後の行に次のように書く。
江戸という時代は、近代への根本的な内省をうながさずにはおかぬ幻景として、私のまなうらでほのかに揺れている。
ノスタルジーで江戸が良き時代であると言うのではない。文明開化や経済至上主義へ異議を唱えるだけでもない。その間で揺れているのが筆者のスタンスである。
私にとって『逝きしー』と本書の読書は、江戸という時代とその人びとの見方を改めさせられたが、さて江戸と現代、どちらが幸せなのだろうか。千葉の郊外で、木の葉をお金に変えたフリをして、浮浪雲の暮らしをしている私にとって、答えは自明である(笑)。マア渡辺氏の決意表明、本書第11章「法と裁判」の終わりの一行をかみしめることとするか。
江戸時代は百姓像ひとつとっても、まだわれわれには未知の時代なのである。
もっと人間のことを知りなさいという。ハイそうしましょう。
コメントを残す