4日ほど悩まされた感冒性肺障害は、本日の午後、1時間ほど深く昼寝をしてようやく全快モードになった。だが咳と鼻水は残っており、さきほど掃除をしながら突然脇の下に今までにない痛みだった。肉離れだろうか。幸いにも触診で肉は離れていなかった。大きく咳き込むと不意に、吐血をしたあとも生きのびた夏目漱石の言葉が蘇った。
「余は病に生き還ると共に心に生き還った。願わくは善良な人になりたいと考えた」
漱石は生きなおそうと誓ったのである。病はそういう力があるのだろう。
そういえば東大病院に腎臓不全の病で入院中のKさんは、1ヶ月半の入院を終えて、今週から自宅での自己腹膜透析生活に入れるとメッセージをくれた。もう死亡保険もおりない身、娘が大学卒業までは働いて生き延びたいという。それは見舞いの時に聞いていた。彼はさらにこう書いてきた。
「社会福祉士の資格をとろうと思っています」
社会福祉士?資格?調べてみると自治体や介護施設等での福祉関係の助言や手配をする人のための資格である。カリカリの理科系である彼が社会福祉とはどういうことだろう。彼もまた病ゆえに善良なる人になりたいと思ったのだ。自分の強み(ITスキル、英語)や経験(米国駐在)よりも、公への奉仕で生きようと思ったようだ。
心には弱い心と強い心がある。弱い心とは折れる、めげる、曲がる、逃げるものだ。ちょっとつらいことがある、自分はどーせこうこうだ、あの人はこうこうだ、だからどーにもならない、と思う心である。強い心とは逆に折れそうになっても折れない、めげそうになると力を出す、曲がっても戻る、逃げずにとどまる。だからどうにかなる、どうしようもないとは思わない、なんとかなる、なんとかできると思う心である。
同じ人間、どうしてこうも違う心もちになるのか。自分の強みに頼るか、公の強みに頼るか、その違いがあるからだ。
自分の強みは「人に向かって働く(勝とう、上回ろう、出しぬこう)」だから「自分を守ろうとする」
公の強みは「人を受け入れる(勝ち負けはない、人と同一になる勇気がある)」だから「自分をさらけ出せる」
我が病は単なる感冒なので、とてもここまでの開眼ないし悟りはない。ただウンウンうなされていた。吾輩にできる公はなにか。作文スパルタ教室か古典読み聞かせ会か、いずれもまだ「強み」を求める段階にあって、公ではない。きっとそのうち見つかるだろう。
結論。人間はせいぜい善き大病をすることである。
よく寝る猫だ…
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