『罪と罰』に気づく

ということで、ドストエフスキーを読みだした。

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表紙は綺麗だが中身は古い。ドストイェーーーフスキィなんだから古典というだけではなく、本自体が古い。1973年刊、引越でも捨てなかったご老体、黴臭いので本文の小口と天地を拭いて、紙ヤスリがあれば削りたかったが、なかったので我慢した。

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『罪と罰』。再読ではあるが、高校生の読書力や経験では露西亜の文豪など読めるものではない。ではなぜ再読をするのか。読みだした理由はぼんやりとしている。あえて言うなら理由をちゃんと探すために読みだしたのだ。

最初のくだりで貧乏学生ラスコーリニコフが、金貸し老婆殺しのための下見の帰り道、寄った酒場で酔客にからまれるシーンがある。からんだ男は貧乏にひしがれ、不運に蹂躙され、家に戻れなくなった。自業自得とも言えるボロい姿、小金を家に入れず酒に費やしてしまうのは、貧乏を救うために一人娘が娼婦をするという現実への絶望ゆえもある。

ラスコーリニコフが酔客の夫を家に送ってゆくと、幼子は腹を空かせてうずくまり、妻は夫に殴りかかった。「あんた!どこに行ってた!なぜボロい服を着ている!」服は質入れしたからだ。それも酒代になった。見てられずにラスコーリニコフは立ち去さるのだが、その時ポケット内のなけなしのお金を全て、そっとその貧乏家の窓枠に置いてゆくのだ。

彼だって極貧である。すぐに「ああ!そんなことするんじゃなかった」と後悔したくらいだが、その行動は実に象徴的である。この後すぐ彼は老婆を殺害する。冷たい計画殺人である。だが実は、無意識下では良心を持つ人間と暗示されているのだ。

たった数行の付け足しのような行動を挿入することで、物語の行く末にふくらみが増し、ラスコーリニコフという人間が分厚く描かれる前触れとなっている。さすが文豪だと感服した。

若い頃の読書ではこんなことも気づかずにページをたぐっていた。再読はするものだ。ここだけでも相当滋養になった。

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