iPhoneの『radiko』なので、黒田のツーシームもフロントドアもフォークも、映像は想像である。だが熱いものは伝わってきた。最後に大谷を抑えてマウンドを降りるなんてかっこいい。テレビは別れた妻がもってゆき、ラジオはたまに聴くだけだ。黒田投手のラスト登板なので聴いておきたかった。
野球中継と言えば、思い出すのは父の姿である。
父は居間のソファをテレビの方角に寄せる。食卓の椅子をその前に置く。よっこらしょとソファに腰を落とし、両足を椅子に乗せて、片手にはお茶、テーブルには短波も聴けるSONYのラジオを置いた。テレビとラジオの二元中継である。
目ではTVの巨人戦を追い、耳で音声の巨人戦を追った。解説者が違うからってなぜ2つも。時には別チームの試合もあったが、昔は巨人戦ばかりだった。土曜と日曜の昼間なら、目が競馬中継で耳が野球である。座る姿はほぼ下着、ドテっと座った。
父のオヤジ臭いその姿が嫌いだった。
ところが今、やっぱりぼくは父のようにラジオを聴いている。もっともジーンズを履いて姿勢正しく。おっと猫が背中に乗ってきて、本棚に飛び移ろうとして、手前で落ちて、ぼくが片手で空中キャッチしたというシーンの違いはあるが、野球ラジオはついていた。猫はバツの悪い顔をしていた。
さらに思い出すのは母が食卓の下に日本酒の1升瓶を置いて、ぐびぐびやっていたことだ。それも嫌いだった。だが後年ぼくも机の下にウイスキーを置いてぐびぐびやっていた。
親の姿が嫌いでも同じことをしてしまう。それを心療内科の世界で「負の連鎖」という。好きでも嫌いでも親と同じことをしてしまう。それは簡単には断ち切れない。連鎖を切るには「許すこと」、親を許せば自分も許されるという。どうやればいいのか。
なかなか許すのは難しいので、ユルく考えよう。母と日本酒をぐびぐびやりながら、父と燃え尽きた黒田投手を「凄いなあ」と褒め合ればいい。二人とも既にあの世なので、そうできないことを許し給え。
今日はピノ子が気持ちよさげでした。