ASEAN留学生就活講座を主宰するMP研の剣持仁さんに、良い言葉をもらった。
「教えてあげる」、「育てる」といった教育目線ではなく、必要な情報やトレーニングを「サービス」として提供していくことがこれからはポイントになるのかと思っています。そもそも、“教育”は上から目線で、無意識下の東南アジア人差別ですよね。
ぼくは就活塾の講師としてビジネスのことをベトナム人留学生に教えている。数年にわたる経験から言えるのは、「教えようとすればするほど生徒は離れていく」ということだ。学校でも「先生」が知識を授けようするほど生徒は勉強しないものだ。一段高い壇に立つ「先生」が偉そうなのも煙ったい。だからぼくは生徒の周りをぐるぐる歩き、膝を折るようにはしているが。
教育とはそもそもどういう言葉なのか。
よく言われるのは「引き出す」というラテン語から…とあるが、漢字の出典は孟子の「『得天下英才,而教育之』とあるのが初めであるとされ」とある(ブリタニカ国際大百科事典の解説)。ここで言うのは英才教育らしい。それもぼくがしたいことではない。
福沢諭吉は「文明教育論」で良いことを言っている。
すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。
教えるのではなく、伸ばす。教育=授けてやるぞ、であり、発育=学ぼうぞ、である。教育という言葉はいかん、と福沢は言っているのだ。もともと持っている才の発達を妨げずに発育させる「具」であるという。具とはなんぞや。道具や器具に通じる言葉、すなわち「サービス」という姿勢が見えてくる。さすが福沢である。この福沢のくだり、藤森平司氏の「発育」の文を参照させてもらった。
最近、ある医師を経由して知った内田樹氏の本や文も読んだが、彼はインタビューで「学びを起動させる」と格好いいことを言っている。起動させるためには、師は弟子に「こんな素晴らしいことを教えてくれた」と思われ、生徒の「器」をはるかに超えたことを教えないとだめだという。
それが「起動させる何か」である。それがサービスだなと思い当たる。
やる気を出そう、自分を変えよう、貪欲になろう、反転してみせよう、世界を変えてやろう、こういう気持ちに学ぶ人を駆り立てられるのが師であり、それを授けることがサービスである。
文を書くこともサービスである。読みにくい孤高の文はだめだ。簡単に読まれてスルーでもだめだ。読まれて立ち止まり読み抜かれて「ああ、そうか」がないと、その文は「師」でも「具」でもない。書き手である自分が読み返してハハンと思うほどであれば一番である。連休のさなか、仕事でへとへとになりながらそういう文になるように、本になる文を最終チェックをしております。
ドクターの肖像を書き上げて、あまりに疲れて果てて猫に当たった。猫、拗ねた。
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