朝鮮半島では共同宣言、政治や芸能界では謝罪会見、スポーツ界では恨み会見など会見ばやりだが、もっとも気になったのはあの知事の会見だった。
新潟県の米山知事が援助交際の女性スキャンダルで辞任した件である。医師と弁護士資格というありえん経歴といい、最初は恋を匂わせてでもデートのたびにお金を渡すのも変だし…と思っていたら、橋下徹氏が核心をついていた。元知事は選挙演説の壇上でバク転してオデコから血を流す変わった人で、秀才で人間関係がつかめない、たぶんロクな恋をしてこなかったと。なるほど…そして橋下氏は弁護士らしく「売春には当事者に罰則はない、なぜなら恋とは微妙なものだから」という。もちろん良いことではないが。ポイントは次の一文である。
「自分の命運は他者に委ねてはならない。他者に自分の命運を委ねる者は滅びるのみ」
元知事はむにょむにょと言って、結論を週刊誌や世論に任せてしまった。世論次第で辞めるとしたため、辞めざるを得なかったというのだ。最初に謝罪して「私は恋に迷いました、50才まで恋をしてなかったから仕方がわからなかった」と(たぶん)「ほんとうのこと」を言えば辞めなくてもすんだかもしれないという。なにしろ道義上はあっても、法律上は問題ないのであるから。
いややっぱり辞任したとは思うが、他者に命運をたくすような人はまた同じことをしでかし、反省もしていないと思われて追求も厳しくなるというのは納得した。「自分の命運は自分で握れ」ばよかったのだ。たとえばこうだ。
「私はこれこれの悪さをしました、それは認めます。つきましては謝罪と罪滅ぼしをします。弁解にはなりますが、こんなことをした理由はこれこれです、みっともない自分を変える機会をください」
と言えれば、じゃあ待ってやるか、更生したらもいっぺんやらしてみるかとなる可能性はでてくる。何かのお願いするときも同じである。頑張ります、あなたの言う通りやります、いかがでしょうか、ではダメである。こういうふうに頑張ります、やらせてください、あなたにはこういうメリットがあります、私を試してくださいと言い切りたい。
自分の命だから自分でどう使うか決める。大事なものを人に委ねるような人を人は信用しない。まさに頭隠して尻隠さず、である。
そういう視点で見ると、元次官のセクハラの逃げ口上も、サッカー元代表監督の辞任会見の愚痴も、TOKIOのメンバーのイマイチの謝罪も、なぜだめなのか見えてくる。ま、人のことはどうでもいい。自分の命運のことを考えよう。
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