愛するということ(2)

昨夜からの雨が吹き込んで、涙と合流してあれこれを水に流していった。

次の一節は、エーリッヒ•フロムの『愛するということ』からの引用である。

 愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。もし1人の他人しか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものに過ぎない。

このあと「誰もが、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思い込んでいる。誰もが、自分の愛する人以外を愛さないことを愛の強さだと思い込んでいる」と書く。ぼくもそう思い込んでいた。いや心の底ではわかってはいた。どんなに小さな命も大切にすることが、愛することだとはわかっていた。ただそれが「心に立つ」までは来ていなかった。

心に立ってきたのは「信じること」である。自分の表現を信じる、自分の気持ちを信じることに始まり、相手を信じる。信じることができれば離れていても近くにある。近くにいても離れている。愛するということはしばしば心に「愛のフィルター」をつくる。フィルターを通じて相手を見つづけると、いつのまにかフィルターは目詰まりを起こして、Only youしか見れなくなる。視界が極小になる。それがいけない。この一節をフロムはこう結ぶ。

一人の人をほんとうに愛するとは、人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」ということができるなら、「あなたを通して全ての人を、世界は、私自身を愛している」と言えるはずだ。

たとえば朝鮮半島の隣国との問題である。

目下のミサイルマン問題は、100年前の1910年の韓国併合やその前の日清戦争以来の日本の占領の歴史から始まっている。占領がありその後米ソによる分断があり国境が生まれた。いつでも歴史のひずみは前の時代の後始末なのである。そう思えばミサイルマンをなんとかして(逃してもいい)、国境を消して、ひとつの国にする支援をするべきなのだ。それが日本や大国の償いであると思う。

議論のための意見でもなく、SNSにリアクションするためでもない。平和主義、博愛主義というレッテルではなく、意見でもなく、ただ態度が生まれる。そのために心に下げる錘を重くしたい。

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