四つ葉のクローバーを探して

それは、見つかると幸運が訪れるという言い伝えがある。

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根はロマンチストなので(^^)花木を見て歩く。花に季節を感じ、木に悠久の命を感じ、我が身の醜さと儚さを憂える。かっこいい(^^)足元に緑の小さな葉がある。多年草のクローバーである。その均整のとれた三枚葉を見ているうちに、四枚葉を探してみたくなった。見つかるかどうか運命かもしれない。

最初はダメだった。

数ヶ月前まで住んでいたマンションに所用で出かけた。そこは広大な敷地がある。敷地内には木々が植えられ、花が咲き、芝生や農園もある。ここならあるんじゃないかと、あちこち探した。クローバーの密集はどこにもある。だが小一時間以上探したが、見つからなかった。

なぜだろう?ふと思えば、そこは「立ち去った地」だった。後ろ向きな人には四つ葉は発見できないのだ。

そこで「未来の地」に行くことにした。

そこは広大な公園である。未来への思い出がある。公園に入ると、ぼくの足は自然に<そこ>に導かれた。なぜかそこには生えているという確信があった。

探しかたはある。

1、ざっと地を見まわし、クローバーを探す
2、クローバーがもっさりしている場を探す
3、ありそうな予感がすれば、それはある。手でより分ければ見つかる。

その通り、わずか5分で見つけた。

四つ葉はゴキブリと一緒で「1匹いればなんとやら」なのである。1本の四つ葉を発見すると、そのそばには必ず何本もある。

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四つ葉の四枚目の葉はなんだろうか。

それは分裂である。個体の本来部分から分れたものである。あるいは踏まれて細胞分裂するとも、遺伝ともいわれる。日陰で日照が少なくて、いじけて割れる説もある(ぼくの説^^*)。ともかくなんやかで仲間はずれの四枚目ができる。

人も同じだ。

<正常な>人びとの中で、<異常な>ものをもっている人がいる。自分は異常だと気づいている。だから日向に出ることが億劫になる。四枚目の自分を晒したくない。つまり四枚目は多重人格かもしれない。いや、本来の自分かもしれない。

だが<余分さ>に魅力があるのはなぜか?余分さに幸福が宿ると信じるのはなぜか?普通の三枚葉の人々は、普通の人生からはみ出せない。だから四枚持つはみ出し者を羨むのか。その勇気を賞賛をするのか。では普通であることには、幸せはないのだろうか。

ぼくに四枚目があるとは思えない。だが見つるだけの、四つ葉の人を希求する願いの強さはある。

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