『生きがいについて』神谷美恵子コレクションを読む。

神谷美恵子氏は精神科医としてハンセン病患者のお世話をし、多くの著書を書いた昭和の文化人である。代表作かつ最初の著書ある『生きがいについて』を読んだ。生きがいに関する11章が、それをなくしかけていた自分に力を与えてくれた。

日本人の生きがいを多面的に解明する本書の2章、「生きがいを感じる心」では、生きがいと幸福感はどう違うかが論じられる。

いちばん生きがいを感じるひとは、自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力をそそいで歩いているひとーいいかえれば使命感に生きるひとではないであろうか。(本書P36)

神谷氏はお手本としてシュバイツアーやミルトンら偉人を挙げているが、僕はここで野球のエンゼルス大谷翔平選手を思い出した。移籍初年の活躍もさることながら、故障対処の姿勢とその後の活躍を見ると、彼ほど目標のために自己コントロールができる人はいない。熱いがどこかクールなのは、目標を捉える目線とそこへ到達するための練習や生活、心のあり方を常に見つめているからだろう。

続く「生きがいを求める心」の章では次の愛に関する一文が心にしみた。

愛に生きるひとは、相手に感謝されようとされまいと、相手の生のために自分が必要とされていることを感じる時に、生きているはりあいを強く感じる。(本書P65)

愛することはどういうことなのだろう。以前読んだエーリッヒ•フロムは「愛とは届け合うこと」と書いていた。相手を思い合うこと、必要とされることである。だがそこにはひとつ問題がある。愛はなかなかうまくいかない。愛するとは相手を所有することではないのにしばしば囲おうとするから(経済でも暴力でも)愛は破綻する。

さらに片思いのような「受け取りサインがない愛」を人は続けることはできるのだろうか。神谷氏は答えをもっている。それは、彼女が愛生園でしたようにハンセン病の患者に尽くすことである。感謝されるかされないかはともかく尽くすことである。それが生きるはりなのである。

ただ、それをするエネルギーを失っているときはどうすればいいのか。生きがいを喪失しかけ、それまでの価値体系が崩壊したと思うときは、「生きがい喪失者の心の世界」の章が心にしみる。

精神的苦悩は他人に打ち明けることによって軽くなる。なぜであろうか。きいてくれる相手に理解や愛情に触れて、慰めや励ましをうけるということもあろう。しかし何よりも苦しみの感情を観念化し、ことばの形にして表出するということが、苦悩と自己との間に距離をつくるからではなかろうか。(同書P131)

だれかに話せばいい、心を開けばいい。書ける人なら書けばいい。自分を客観化するのがいいという。そこでひとつ重要なことがある。続く「新しい生きがいを求めて」の章で、神谷氏は作家パール•バックの言葉を引用して、こう書く。

ここで注意をひかれることは、パール•バックが「中心をほんの少しでも自分自身から外せることができるようになったとき」悲しみに耐えられる方向に向かったという点である。つまり自分の悲しみ、また悲しむ自分に注意を集中している間は、かなしみから抜け出られないということである。(本書P153)

子供を欲してやまなかったバックに生まれた子は、障害を持つ子だった。作家は苦しみ、嘆いた。やがて彼女が到達したのが「自分から目をそらすこと」だった。いかにそらすのか?神谷氏は三つの方法を提示する。代償、変形、置きかえである。

代償はたとえば「死んだ息子の代わりに養子をとる」ことである。変形とは「特定の人の死を多くの人への人間愛に変える」ことだ。これはバックが孤児を引き取るなどでやったことである。そして置きかえは「何かの別の仕事や打ち込めることをつくる」である。

もう一つ、神谷氏は「自然の中に入りなさい」という。丘の上、森の中、川のそば、山の上など自然の中に入れば、真に美しいものに心が満たされ、自分の存在はその一部にすぎない、ちっぽけだと思える。そうしていると、いずれ訪れるのが“救済の光”だという。「心の世界の変革」の章では高揚感、光の世界を紹介する。

何日も何日も悲しみと絶望に打ちひしがれ、前途はどこまでいっても真っ暗な袋小路としかみえず、発狂か自殺か、この二つしか私の行きつく道はないと思いつづけていたときでした。突然、ひとりうなだれている私の視野を、ななめ右上からさっといなずまのようなまぶしい光が横切りました。と同時に、私の心は、根底から烈しいよろこびにつきあげられ、自分でも不思議な凱歌のことばを口走っているのでした。(本書P256)

これはある無名の人の話であり、他にも「光の体験」が本書にはある。僕も似た体験を読んだり聞いたりしたことがある。だが自分にそれがあったか?といえばあやしい。光に暴露しそうもない自分のような人はどうすればいいのか……

と思いつつ本書の「おわりに」に到着すると、著者の次の言葉があった。「この本をかきはじめてからいつの間にか7年もたってしまった」。書き出したのは1959年、出版したのは1966年である。4年ほど書いて3年ほっておいたというのだ。長すぎて短くするために必要な年月だったという。それほどの打ち込みがあったのだ。

おわりにのあとには「執筆日記」がついている。

1958年の暮れ、神谷氏はゴッホ展を観て画家の苦闘を思い、「人は自分であり切らねばならない」と感じた。また1959年6月、知人が放った一言「生甲斐がなくなりました」に書きたい心を動かされた。そして同年暮れ、夜おふろの中で「生甲斐について」という本を書きたいと考えて夢中になった。翌1960年の正月から、過去に読んだ生甲斐の本を探してめくり直しだした。あとはひたすら執筆である。夜書いていたら2時すぎていた、午前中いっぱい書いていた、しらべしらべ書いていた……

この日記のくだりにハッとした。自分であり切って書くことである。一人で、自分らしく書くこと、それが僕にとっても自分の生きがいなのだった。それをするしかないのだ。それしかないのだ。僕はここに勇気をもらえて、重たい心がずいぶん軽くなった。今日はその書きたいことに向かってみたい。自分でありきることも考えつつ。

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