安富先生からいつも示唆に富むLGBT論を知る。
『歴史の中の異性装』(勉誠出版 2017年)は学者らによる世界の異性装の諸問題を取り上げた編著である。日本の異性装の章で、東大の女性装教授、安富歩先生が「女性装を通じた考察」を書いている。これがおもしろい。
安富氏は女性装をしだした頃に「白い眼」を感じた。安富氏がどう思おうとお構いなしに、「コイツ、なんで女装している?」という眼で睨みつけられたのだ。そのすさまじい暴力は、生まれて初めて感じた「差別」だと安富氏はいう。だがすべての人が「白い眼」を持つわけではない。中にはなんとも思わない人も、好意的に受け止めてくれる人もいた。そこからこう理解した。
白眼視の原因は、私の姿にあるのではなく、白眼視する人の側にある、と言うことになる。(同書P90)
安富氏は女性装でいると安らぐからそうする。それを異様である、という眼で見ることは差別であり暴力である。「自分を安全地帯に置いて他人に暴力を振るいたい人間が、何らかの記号を指標として、誰かを集団で排除して攻撃する」ものだと射抜く。
よく言われるように、性差は「スペクトラム」に過ぎない。男寄りか女寄りか、それだけなのだ。安富氏は次の6分類を挙げている。
男性器→自己を男性と認識し、女性を性的に志向(←男)
男性器→自己を男性と認識し、男性を性的に志向(←ゲイ)
男性器→自己を女性と認識し、女性を性的に志向(←MtF)
男性器→自己を女性と認識し、男性を性的に志向(←MtF)
女性器→自己を男性と認識し、女性を性的に志向(←FtM)
女性器→自己を男性と認識し、男性を性的に志向(←FtM)
女性器→自己を女性と認識し、女性を性的に志向(←レズ)
女性器→自己を女性と認識し、男性を性的に志向(←女)
この分類のー番上が「男」で一番下が「女」、間の6種類を「LGBT」とする。こういう分類をしだすと、パターンは細分化されて収集がつかなくなる。本来はスペクトラムなので分類する必要などない。分類して「差別」したいのは、白い眼をもつ人々である。
※( )内は私が補足した。MtFとは「女性になりたい男」、FtMとは「男性になりたい女」である。
つまり、実のところ、ホモもレズもオカマも存在しないのであって、存在するのは性的嗜好や性自認を口実にした暴力だけである。 問題にすべきは、このような暴力を振るう人の心性であって暴力を振るわれる人の属性ではない。(同書P96-97)
つまりトランスジェンダーがすべきことは、その性的自認に悩むことではなく、「白い眼」を減らすこと、なくすことである。私の問題意識のひとつもここにある。
ただ私は一点、安富氏の意見に異を唱えたい。安富氏は「ノーホル、ノーオペ(ホルモン補充療法なし、性転向手術をしない)」である。女性化する、あるいは男性化を治療するというのは、いじめられないようにするためにする防御策、白い眼の術中にハマるようなものであるからだ。
論理的にはそうだ。だが私には(おそらく安富先生にも)「女性美への渇望」がある。私はできるだけ「女性美人」になりたい。そこは譲れない。
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