※2022年1月から9月のブログエントリーは、トランスジェンダーのブログで書いたエントリーからセレクトして再掲しました。
モリー先生のような恩師がいればいいですね。
社会心理学の大学教授のモリー先生は、難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患った。余命2年と宣告された。ショックを受けたが、それ以上に「できなくなっていくこと」に愕然とした。車のブレーキが踏めなくなり運転を諦めた。よろけるので散歩ができなくなった。水泳にも介助が必要になった。講義もできなくなった。
そんなモリー先生がTVに取り上げられ、死への覚悟のインタビューに応じた。その番組を観たひとりにスポーツライターのミッチがいた。彼の学生時代の恩師はモリー先生だった。ミッチはミュージシャンになれず、ライターに転じた。忙しく働いていたが心のどこかに空白があった。20年ぶりに先生に会い、毎週火曜日に先生の講義を聴講することになった。講義といっても教科書はない。テーマは「人生の意味」である。
これが『モリー先生との火曜日』の出だし。モリー先生はミッチに問いかける。
「誰か心を打ち明けられる人、見つけたかな?」
「君のコミュニティに何か貢献しているかい?」
「自分に満足しているかい?」
「精一杯人間らしくしているか?」(同書P47)
ミッチはしっかり答えられない。私が聞かれても同じである。気詰まりな家族をつくり、コミュニティなんてなく、満足はしておらず、人間らしくなったかといえば、トランスジェンダーになって初めてYESと言えるだろうか。こんな具合に自問自答をさせる本である。
結局、人生に意味を見いだせないのは、時間があると思い込んでいるからである。
モリーは、日がさしこんでいる窓のほうをあごで示す。「あれね。君はあそこへ出ていける、いつでも外に出られる。通りを行ったり来たり、走って大騒ぎもできる。私はだめなんだ。外へ出られない。走れない。出れば気分が悪くなるのが心配だ。だけど、わかるかな?私はあの窓を、君なんかよりよっぽど鑑賞しているよ」(P109)
自分の寿命が尽きかけているから、他の生命の様子がわかる。樹木の様子が変わるのを感じ、風を変化を感じる。それまで見えなかったことが見える。外に出るよりも、出られないからよくわかるという。
人はまだ死なないと思うから、生命という箱の四隅に目が配れず、そこが汚れたり、凹んだりしていることがわからない。死に向かう道に立つことで、四隅を見つめよう、凹みは直しておこう、と思うのだろう。
このくだりで、引きこもりの人を思い出した。引きこもっているからこそ、わかることがある。たとえば家族のいさかい、無理解がわかる。だから動けない。あるいは目が見えない人が、実はよく「見えている」ことがある。路上で困ったときに、肘に伸べてくれた人の手のひらから、良い人かどうかを敏感に察する。
人生の全ては自分と人との関係づくりに還元されるような気もする。
人生を幸せにおくるコツとは、実は師弟関係なのかもしれない。先生と生徒、上司と部下、コーチと選手、そして父母と子。師弟関係に恵まれることは対人の柱。自分の未熟さを素直に伝えられる人がいる。それが自分を理解し、相手を思いやり、前向きに生きようと考えさせる。
感想がまとまりにくいが、人生もまたまとまりにくいものかもしれない。風で揺れる木洩れ日のような、プリズムを感じさせる一冊である。
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