あんがい私は挑んできた、ということに気づかされた。
これまでの私の人生は逃げばかり。大学を休学しての長旅も、何度かの転職も、離婚も、逃げだとずっと思っていた。コンプレックスを募らせていた。実はそれらは逃げもあるけれど、克服しようと挑んできたとも言えることに気づいた。
運動音痴なのに少年野球チームに入った。補欠だったが1日も練習を休まなかった。サッカー部でも下手なりに努力した。ただ水泳からは逃げた。作文では創作は上達ができず、いったん逃げたが、今曲がりなりにも文でお金をもらっている。
会社員には仕方なくなったが精一杯挑んだ。最初の勤め先で額にハゲができたが、7年耐えてちゃんと転職できた。アメリカ留学の成果は乏しかったが楽しくやれた。資格の勉強もたくさんした。コンサルタント業も二流なりに成功もあった。独立は難儀だった。苦手なことにあえて挑んできた自分史。挑んでは小さな成果で路線変更。能無しの自分に見切りをつけて別のことに挑んできた歴史とも言える。
ふと「挑」と「逃」の漢字は似ていることに気づく。
てへん:「手」の字は手を意味し、五指と手首の形に象る。 つかもうとすること。
しんにゅう:「辶」は行きつ止まりつしながら進むこと、あるいは急いで行くことを表す。
きざし:「兆」は前触れや数の多さを表す。何かを感じて動くという意味にとれる。
挑むはつかもうとすること、逃げるは行きつ戻りつすること、兆しは動くということ。挑むと逃げるは表裏一体のようでもある。
さて目下の私が答えを探しているのは、トランスジェンダーとして女になろうとするのは「逃げ」か「挑み」か。
ありのままの自分を使って、できるだけ綺麗な女になりたい。この思いが一番しっくりくる。やっぱり私の中には女がいる。ありのままの内的な素の自分は女なのだろう。それを出したいのでしょう。
そもそも性別を変えることは、この世でも最も難しい挑戦でもある。心も容姿も反対性に近づくことは容易ではない。得るものもあるが失うものも多い。大いなるばかげた挑戦です。そこまでしてもやりたいと思うのだから、挑みや逃げを超えた何かがありそう。
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