ひとがトランスジェンダーになるのはモデルがあるー
そう思ったのは、仕事である再生医療の研究者の論文を読んでいると、傷ついた細胞を再生させるために様々な「刺激」を加えるとありました。刺激によって細胞が目覚め、血液や臓器を修復していくというのです。
ならばトランスジェンダーも同じように、外からなにかの刺激を受けて、自分の中にある別の性に気づいていく、そういうメカニズムがあってもおかしくない、と思ったのです。
自分のなかにあるトランスジェンダーになる要素 → 刺激1 →刺激2 … 覚醒 → 転換1 →転換2…
トランスジェンダーになる要素をもつひとがいる。刺激を受けてそれがふくらんでいく。あるときドーン!と覚醒して、「私のなかに女がいる!」と気づいて転換していく。そういう“トランスジェンダー•モデル”があるのではないでしょうか。
医学的には、なぜひとがトランスジェンダーになるかまだ解明されていません。ひとは受胎時に染色体によって男女が決まるわけですが、男になるか女になるか性器形成は10週ほどかけてだんだんとなされていく。性別は決まっていても、まだ男らしくなく女らしくもない状態が続く。トランスジェンダーはそのときのホルモンバランスが生まれ持った性とは逆に寄っているとも言われます。
性不一致の原因には他にも後天説もあります。幼少の頃や思春期には反対の性への興味が高まります。トランスジェンダーのリチャード•レネは著書『Second Serve』のなかで、幼少時から姉の服を着ては、自分のなかの女の子に「レネ(Renee)」と名づけてレネなりきった。多重人格の一種です。別の人格をずっと隠して生きていきますが、ある刺激があって、それが出てしまう。隠しおおせなくなってしまったわけです。
トランスジェンダーになる要素は人それぞれで、それが多いか少ないか、出てしまうか出ないままかの違いだと思います。では私の「女になりたい」という思いは、どこにあるのか、根源的な要素は何なのか?ずっと考えてきて、ひとつ思い当たりました。
私は「憧れの女性」がいます。中学生の頃に知った二次元の女、画家ムンクの描いた『マドンナ』です。
絵が好きだった私は、この絵をブルーブラックと赤インクのペンで精密に模写しました。だれがどう見ても上手な模写を誇らしげに硬いクリアな下敷きに入れて勉強しました。マドンナの大きな閉じた目、尖った鼻、上げたあご、半裸の胸から腹。相手をそそるようで、しかし拒むような姿勢に女の極美を感じました。一方、男はマドンナを囲む「額」にいます。マドンナを囲む精子には、美女を仰ぎ見る男の羨望があります。
私は美しさには何よりも価値があると思います。美しい女には最上の価値を感じます。なぜそう感じるか?どうやらこの絵が原点にありそうなのです。
なぜマドンナは「聖母マリア」つまり「憧れの女性」なのでしょうか?史実からいえば、この絵のモデルになった女性に画家ムンクは恋をしました。しかしその思慕は通じなかった。ふられたわけです。だから「決してとどかない美しいひと」という主題がこの絵にこめられているのではないでしょうか。
その主題を私は敏感に感じ取ったのでしょう。
私も美人に恋をしてはことごとく届かなかった。私ごときが美人を落とせるわけがないのです。生涯を通してオクテの私は何度も恋愛に失敗しました。だから美人は憧れのままです。届かないからこそますます羨望してしまう。
男というものは女を神格化するものです。神格化するから、届かないから、苦しむのです。
苦しみから脱出するには「神格化」をやめることです。「現実のもの」にすることです。美人と結婚して、素顔に幻滅するのもそのひとつですが(笑)私は自分のなかにある女性に気づいたとき、楽になりました。ああ、女ってこういうものかな、こういうことが好きで、こういうことをするのが楽しいんだ!とわかってきたのでしょう。女性は神ではなく造形のひとつであると知りました。
ただしせっかく女性に近づこうとするなら、できるだけ美しくなりたいと願う。それはムンクのマドンナのせいです。大きな憂いのある目。魅惑的な唇。つんと高い鼻。しまった頬。抜群のプロポーション… いずれも憧れです。少しでもそれらに近づきたい。
「女性美人」を目指します。

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