1920年代から30年にかけて行われた「世界初の性転向手術」を描いた映画『リリーのすべて』は実話を元にした作品で、ハマった私はその原作を読んだ。男性アンドレアス(出生名はアイナー•モーンス•ウェグナー)が女性のリリー•エルベとなった自伝の英訳本(原書はドイツ語)のタイトルは絶妙で、『Man into Woman』という。
930年のリリーの死後、遺された日記を元に友人(Ernst Harthern=Niels Hoyer)がまとめて1933年に出版した本によれば、1910年前後からアンドレアスはリリーとして生活することが日常となった。ゲルダとともに欧州各地を旅するリリー•は、自分のなかにもたげてくる感情に気づき、ある夜、妻のゲルダにうちあけた。
Really I cannot imagine what existence would be like if Lili should one day vanish for ever, or if she no longer look young and beautiful. Then she would no longer have any justification for living at all. (出典 本書P92)
「私はリリーがある日、永遠に消えてしまう存在になるのがまったく想像できない。彼女が若くもなく美しくもなくなることも考えられない。そうなったら彼女は生存することを正当化できないだろう」(拙訳)
打ち明け話を聞いたゲルダは答えた。
It is strange that you have mentioned something which has been on my mind a good deal lately. In recent months I have felt prickings of conscience because I was, to a certain extent, the cause of Lili, of enticing her out of you, and thus becoming responsible for disharmony in you which reveals itself most distinctly on those days when Lili does not appear.(同書P92)
「私も同じことを考えていたの。びっくりしたわ。この数ヶ月ずっと心のなかにトゲが刺さっていた感じ。あなたのなかからリリーという「トゲ」を出してしまった。あなたのなかからリリーを呼び覚まして、あなたを揺らしてしまった。ずっと責任を感じていたの」(拙訳)
そういうとゲルダは泣きだし、アンドレアスは彼女をなだめた。しかし涙にくれながらゲルダは「私たちはリリーを失ってはならない」と言う。アンドレアスはこうして医師を訪ね、生理的にも女となっていく。
完璧な女装にあきたらず、その先に踏み出したわけですけど、当時、性転向手術なるものはほぼなかった。今風に言えば、症例さえない自費手術。それに立ち向かうには勇気と費用が必要です。後者はアンドレアス名義の絵画作品を画廊を通じて売却して工面した。くわえて臨床研究的な手術であることから、低料金にしてもらえた。
では前者の勇気の中身は何なのか?本書にはドイツの医師がアンドレアスを診察して、「完璧なfemale conformationがある」というフレーズがある。“女性との一致”とはインターセックス(性分化疾患)であったのか、染色体異常なのか、両性具有なのか、詳しくはわかっていません。カルテも空襲で焼けてしまったから。そもそも男装でも女に見られたこともあったというアンドレアスは、女性になる適性が一般男性より高かった、というのは事実でしょう。
睾丸(精巣)を採取した第一手術をあと、リリーは男性からプロポーズをされた。歓喜したリリーは手術に踏み込んでいく。第二の手術は子宮の移植と造膣で、第三の手術でペニスと陰嚢を切除した。厳しい手術を支えたものは女として認めてくれたことへの感謝でした。あいにく当時の手術レベルでは拒否反応が強く、術後感染症も発症し、第三の手術の三ヶ月後にリリーは死去した。だがリリーは幸せに死んでいったといいます。なにしろ自分のなりたい姿になれたのですから。
ここにトランスジェンダーの幸せが映されています。自分のなりたい姿になり、それを認めてくれるひとが一人でもいること。リリーは求婚され、幸せになろうと思った。そして死へ向かうなかで真の生を得た。
アンドレアスを勇気づけたエピソードが本書にあります。
手術前夜、アンドレアスと友人のニールズ(本書の著者)が二人でカフェで乾杯をしようということになった。カフェの外のテーブルに腰掛けると、新聞販売スタンド(キオスク)が見えた。そこに赤毛の売り子がいた。背中にはコブがある身体障害者の少年です。アンドレアスはかれを見つけて、飛び上がるように立ち上がると、かれのところに行ってチップを2シリングを渡しました。1シリングが今の貨幣価値で2000円とすれば4000円。売り子は金額に驚いた。席に戻ったアンドレアスはニールズにこういう。
「女にもコブがある、それは幸運のコブさ」
そしてヴィンテージワインを頼むと、売り子と三人で乾杯をしました。売り子は感謝してこう言いました。
Your health, my dear sir. May your good soul long survive you! (同書P121)
「旦那様の健康に乾杯、その御心があなたを生かすことでしょう!」(拙訳)
私の想像ですが、アンドレアスはこう考えたのではないでしょうか。トランスジェンダーの手術を受けて女になりたいという自分は、身体障害者のように普通ではないのかもしれない。あるいは手術が失敗して身体障害者になるかもしれない。死ぬかもしれない。しかしコブをもつ少年は、正々堂々と町中で働いている。その強さ、その勇気に乾杯したかった。自分も少年のようにあらねばならないと思った。
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