2022.09.18記
※2022年1月から9月のブログエントリーは、トランスジェンダーのブログで書いたエントリーからセレクトして再掲しました。
夫のアイナーは妻のゲルダに請われて、女性物の靴下を履いた。それから女性物の靴を履いた。かれの足はその靴には大きくてはみだした。だがアイナーは女の靴下に包まれた自分の足を、踵まではいらない足を、じっと見た。感じたのは違和感ではなかった。言葉にし尽くせない喜びだった。
自分のなかに女がいた…
2015年公開映画『リリーのすべて』(原題『The Danish Girl』)の最初のクライマックスシーンです。二人ともに画家である夫婦ですが、アイナーは売れっ子で、ゲルダは売れずに商業画を描いていた。その日もゲルダは女性モデルの商業画の仕事があったが、モデルが来れなくなってしまった。そこで「足を描かせてほしいの」と代役を夫に頼んだ。そのときアイナーのなかにいた別の性が呼び覚まされた。以来アイナーは、妻の下着を身につけ、貸し衣装で女装を愉しみ、自分のなかにいる女性を育てていく。
1920年代に世界初の性転向手術をしたデンマーク人の実話の映画化。映画のなかのアイナーも実在したリリーも、どちらも美しい。おヒゲはどう隠したんだろう?スネ毛は剃ったのかしら?と細部にも注目したけれど、忘れられないシーンは、アイナーが自分のペニスを太ももにはさんで隠して女装するところ。でっぱりを押し込めば女っぽく見える。女にはペニスはないし、かれもいらない。mtf(男から女になるひと=Female Transgender)なら共感できる感覚。
私はこのシーンが暗喩するものも感じた。それは女と男のちがい。男はペニスで突進し、女はヴァギナで受け身になる。男の愛と女の愛の本質的な違い。それもこの映画のテーマである。アイナーの女への変化をおもしろがったゲルダは、「リリー」という名をつけて共にパーティにくりだす。そこで男性に言い寄られるリリーを見て、ゲルダは複雑な感情を抱く。夫が女になってしまう、夫が女として言い寄られる… リリーが男と付き合うのをどう観るか。リリーが女になったから男を求めだした、と単純化するのは間違い。これは女になった解放感から、性が自由に解き放たれたのである。そこでわかってくることは…
これは愛に関する映画であること。
リリーは妻とセックスができなくなるが、それもリリーが男を求めるからと単純化するのも間違いである。むしろ夫婦という枠組みが揺さぶられたのだ。男と女という普通の組み合わせが揺さぶられたせいだと。女と男の性とは、性機能上の違い、社会的な役割、そしてホルモンという幾つかのバランス上に成立するもので、それが壊れていくとどうなるのかという問いかけである。
愛には異性愛もあれば同性愛もある。家族愛もあれば友情もある。愛は人間の根幹をなすものである。そこに障害があるとーたとえば幼少期に愛されなかった体験や寂寥感のなかで青春を過ごした体験ー愛をめぐって人格や生き方に問題が生じる。親や兄弟姉妹とうまくいかない、恋や結婚がうまくいかない。失恋や不仲、離婚を繰り返してしまうなど。愛することと愛されることが原因なので、つねに問題は愛に生じるわけ。
アイナーのとってその問題解決(ないし問題深化)はリリーになることだった。そこで絵を巡って興味深いエピソードが二つ描かれる。
アイナーの絵画は自分の孤独感の埋め合わせでした。かれの孤独をもっとも象徴するのが、ふるさとの痩せた木々を描いた絵。どんな孤独があったかまでは触れられていない。ただそこにリアルな思いが込められているから、観る人々を感動させた。ところが画家がリリーになることで、孤独から自己解放し幸せに向かっていった。孤独感は後退して、本当の自分を出せるようになった。絵を描くこと=代償的行為=が必要なくなった。だからアイナーは絵を描くことをやめて、普通の女性のように百貨店勤務ができるようになった。
それが幸せなのか?才能が消えていってもいいのか?重い問いかけも生まれた。
もうひとつのエピソードは、売れなかったゲルダの絵が売れるようになったこと。挿絵やつまらない肖像画はさっぱり売れなかったが、リリーをモデルにするとその絵は争うように買われていった。なぜ売れたのか?絵には人間の苦悩や解放感、喜びが絵に込められていたから。リアルな人間の魂がそこに描きこまれていたからです。トランスジェンダーとはQueer=奇妙=な存在ではなく、まっとうに生きようとする格闘。それが塗り込められていた。
トランスジェンダーは愛のかたちを変えていく。
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