昨日シダキュア (スギ花粉舌下症)治療薬の「最後の処方」を受けた。来月11月中旬で丸3年、1日も欠かさず免疫療法を継続するのを機に、中止を決めたのだ。というのも3年継続すれば最低2年は効果が持続するという医学上のエビデンスがあるからだ。10年来の花粉症を8割までは克服できた。
最近もうひとつ克服できたのが、納豆である。
3ヶ月ほど前、近所の外食店で注文した定食に納豆がついていた。大の納豆嫌いなので、舌打ちをした。ところがなぜか何気なく口に運んだら、なんと食べれてしまった。何十年も食べれなかったのに!感動的でさえあった。しばらくして小さな粒のものなら食べれるようになって、今朝も食べた。イソフラボン万歳。
克服とはどういう瞬間にできるのだろう。
一昨日、小学生の時までおねしょのクセがあった人の話を聞いた。毎日のように布団干しだ。ところが6年生で1泊の林間学校がある。困った母は担任の先生に「息子を夜中に起こしてトイレに連れてってください」と頼んだ。林間学校でおねしょをしたらエライことである。危機である。どうなったかといえば…
おねしょをせずに済んだ。それ以来、克服できた。どうやら危機に直面したから克服できた。危機を乗り越える時、人は克服する力を得るのではないか。一方私の納豆のように「何気なくできる」のもある。それは「できない」という「思い込み」を外せたせいだろう。
鉄棒のさか上がりや縄跳び、跳び箱、算数も英語もそうだ。克服する対象は大小高低あるけれど、小さなことでも、少しでもできるようになれば、克服である。それを大きくしていけばいい。
結局、人生は克服の連続だと思う。
私なぞはほんとに劣等感のカタマリで、弱気な自分を押し込んでは受験し、押し込んでは就職し、押し込んでは家庭人を務め、押し込んでは転職し、押し込んでは独立し、という連続だった。才能ある人、有能な人、弱気がない人が羨ましかった。転職や仕事を変えた心の隅には、「やりきれなかった」という負い目もある。
一方で、「ここまでやれた」ということも何度もあった。やれたから別のことをしようと転職をできたとも言える。100%克服できなかっとしても、別の道が開いたのである。なにしろプロ野球選手だって、一流のプレーの日々がある一方で落日の日々がある。引退もする。できる人でさえもずっとは克服し続けられないのだから。
克服とは弱気の自分との生涯にわたる戦いである。
表舞台で克服をしようとする自分がいる一方、舞台の隅にじっと出番を待つ弱気の自分がいる。弱気の自分に「休んでろ」と言って、舞台で挑み続ける克服する自分が舞台を休めば、弱気の代役の出番だ。だが抑えた花粉症が再び出たらまた抑えればいい。そのくらいの気持ちでいきたい。
いつか克服する自分と、弱気な自分が重なり合う時がくる。それは月と太陽のかくれんぼ、皆既日食のような重なりあいだ。生きづらさがもっとも小さくなる瞬間、「小さな自分」が「一番大きくなれる場所」を見つけた瞬間である。
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