ちょっと沈んでいたので真鍋淑郎氏のノーベル賞受賞ニュースが、すごく力になった。スーキー•マナベは気骨あふれる人だと思う。なぜ米国に移住したかと聞かれて、こう答えた。
真鍋氏は「日本は互いを邪魔しないように協調する」と日本の慣習をまず説明した。「私は協調が得意ではなかった。(米国では)他の人が感じていることをあまり気にせずに行動できる」と述べ会場は笑いにつつまれた。(日経記事より)
これがアメリカの良いところだ。逆に言えば、他人が何をしようが自分はこれをするという強い意志と目標を持ち、成果を挙げていかねばならない競争社会に生きるということである。
成果の大小は、才能もあれば運もある。それは仕方ない。だが結果だけを問うのはちがう。独自に生きること、それを貫くことに価値がある。とくにカンレキとなって、世間的な成果をギスギス問う必要性が薄れてきた年頃ならば、世間とはちがう評価軸を持つべきじゃないか。
真鍋氏でもう一つびっくりしたのはその年齢。90歳でしっかりと英語を話す姿。氏の年齢と研究員職での活躍を知れば、死ぬまで自分はどう生きるか?を考えざるを得ない。
カンレキになれば普通のひとは経験を生かして「もう数年働き」、やがて「趣味に生きる」「旅行をする」そして「病になる」。それもいいが、せっかく生を得たのだからもうちょっとないのか?
変えることは新しい仕事やボランティア、趣味がある。離婚があり、出会いもある。改名するひともいる。これらは手段である。手段には目標があるはずだ。目標とは「いかに生きるか」すなわち「これまでと違うパーソナリティになる」ことである。
何をしようか、どこに行こうか、もいいのだけど、カンレキは人生の第二の転換点なので(転換点は30歳、60歳、90歳と30年おきにくる)、手段と共に目標も変えるチャンスでもある。目標とは「どういうひとになるか?」つまり「どういうパーソナリティになるか?」である。
私は自分の体型が嫌いで、運動神経もゼロで、器用貧乏だし、恋も愛も下手で孤独癖だし…とにかく自分嫌いだった。自分に「自信」がなかったり、「仮面」をかむっていたり、自分が「嫌い」だったなら、人格を変える努力をし、手段を精進するという両面が必要だと気づいた。
チェンジでどういうパーソナリティになりたいか、書き出してみよう。今までの自分の何が嫌いか、自分は何に憧れてきたか、本音のお手本はだれか、どんな性格のひとか、そのどこが好きか……
なりたい人格が明確になれば、手段も明確になる。正に車の両輪である。盆栽や町内めぐりやバス旅行以上の冒険、「カンレキからのアドベンチャー」を目指したい。そう思いませんか?私は90歳まで生きることは絶対にないが、最後までBeautifulにHappyに生きたい。それが自分らしい評価軸である。
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