オリンピックやコロナのニュースの洪水のなか、神様の記事を読んだ。
『マツコ会議』なるテレビ番組があるそうで(私はテレビを所有していない)、タレントの鈴木奈々さんがリモート主演した。マツコは言った。「一時は露出がすごかったけど最近は見ない。でもわたしは(あなたを)見たい。面白いじゃない」。そう言われた鈴木はマツコにこぼした。かつては仕事は多かった、でもコメント力がないので減った、自信がない、わたしは求められてないと愚痴った。するとマツコは即座に「そんなことはないわよ、あなたをテレビで見たいひとはいる」と話した。すると、鈴木は号泣しだした。なんでほめてくれるの?とティッシュに顔をうずめた。マツコは言った。
「(こんなにすなおに感情を出せる)あなたはすごいわ」
マツコはひとに寄り添いながら、批判や意見を上から目線でいうのではなく、ひたすらそのひとを受けとめる。受けとめられたひとは、そこから「再生をしだす」。
なにしろテレビがないので、マツコを私はたくさん観ているわけじゃないし、チラチラ観た印象にすぎないが、私の見るマツコは「こちら側にいないひと」である。
こちら側とは体制、世間、一般、ノーマル…といった意味だ。マツコはこちらからは外れた存在である。風態を見ても言動を見ても外れているし、性別も貧富も超越している。小さい家に住んでいるらしいし。
ではマツコはどこにいるのか?「あちら側」である。要するに外れ者である。あちらといっても達観じゃないし、なにもかもお見通しでもない。外れているから「自由に動ける」。外れているから自由に「相手のなかに入れる」。外れかけたひとの気持ちもよくわかるし、ゴリゴリの外れっこないひともよく見ている。
トランスジェンダーとは、こちらとあちらを自由に行き来する能力を獲得することでもある。いたたまれないから、対立性にうつるのだ。だから、悩めるひとの思いに敏感だし、そのひとが間違っていようといまいと関係なく、認めてあげることが大切だとわかっている。ひとは認められ、許されることで、もっと善くなる勇気を持てる。
マツコは神様である。
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