歌うように書く

息つぎをしたくて聴いたのがブランディ•カーライル(Brandi Carlile)の『Mother』。自分で生んではいないが娘であるエヴァンジェリンとの交流を歌った歌。歌う前の語りはこうだ。自分はレズビアンだから自分では産めない。娘が産まれてきた時は、周りを見回して、自分がどういう顔をすればいいか複雑だった。でもここはゲイのママもいればパパもいる。トランスママもトランスパパもいると笑わせる。そして歌。

娘は私から睡眠を奪い、ありとあらゆる家財を壊し、暮らしのプランをキャンセルさせ、私の車もゴミにした。でも外を見れば山には雪がかぶり、仲間たちも人生を謳歌している。そして私はエヴァンジェリンの母である… クローズドキャプションがついているので聴いてみてください。

子供がいる暮らし、気持ちをストレイトに歌っている。どうもこういうのが僕はまだ苦手だ。「感情を詩う」よりも「感情を描いて」しまう。男の特性なのかもしれないが、ここには大きな違いがある。

思いつつままに「違い」のことを書く。

以前、メジロの小鳥を一晩飼ったことがある。親からはぐれて飛べずにいた幼鳥である。チュンと名付けて、一夜の小さな物語をブログに書いた。読んでくれた人が(女性)、あたしなら違う書き方をする、と言った。どんな書き方だろう?とずっと思っていた。たぶん「描く」のではなく「語りかける」ように書くのだろう。生きてほしいと声をかけてなでるように。

アメリカの作家J•D•サリンジャーが、ある作家修行のひとの文を批判した。「きみは書きたいことを自分で燃やしているだけだ。そうじゃないんだ。読者と文のあいだに炎を置くように書くんだ」と言った。たしかにサリンジャーの最良の作品では、登場人物の炎が小さくなったり、大きくなったりしている。それだ、と思う。

研究中のフランスの作家ジュリアン•グリーンの作品には、どの物語にも主人公の感情の移ろいがある。娘がしだいに狂気に落ちていく「アドリエンヌ・ムジュラ」を筆頭に、さまよい、ふるえ、ただずみ、そして殺す。グリーンの作品にある怖さは、それが読み手の心に棲むことにある。

議論でひとはなかなか説得されないように、考えを書いてはならないのだ。考えを詩にして、感情を移ろわせないとならない。読むひと聴くひとが、つかめるようなところにそれを置かねばならない。

ブランディが娘を歌うように書く、というのが究極の目標。ひょっとしたら、母の気持ちになれば書けるのかもしれない。


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