ジャコメッティのモデル

あらゆる書きものには「構成」がある。起承転結、序破急、盛り上げるエピソード、大団円… 構成を作らず、見えるものをそのまま書けと言われたらどう書けばいいのか?

哲学者矢内原伊作氏のエッセイ『芸術家との対話』を読んだのは、ジュリアン•グリーンの作品を翻訳した高橋たか子のエッセイに、矢内原氏と彫刻家ジャコメッティの“対話”の話があったからだ。これがものすごい。

1960年前後の話だ。矢内原氏がフランス留学をしていた時、ジャコメッティに出会った。彫刻家は矢内原氏を気に入って、モデルにしてかれの顔を描き出した。ところが何日たっても終わらない。

「とても悪い、すべてが間違っている。初めから全部やり直さなければならない」と彼はいつも悲観して言う。それは黒と白の微細なタッチの堆積で、近くで見るとほとんど何が描いてあるかわからないほど漠としているが、数歩離れてみると、石のように堅固で緊密な顔が画面の奥から浮き出してくるのである。(矢内原伊作エッセイ5 芸術家との対話 雄渾社 P6)

毎日午後からデッサンがはじまる。彫刻家はだめだ!くそ!もっと鉛筆が細ければ!などとわめきながら、休むことなく描き続ける。夜の七時頃まで続き、双方がへとへとなると、カフェで珈琲と茹で卵を食べる。それから八時半頃からまたアトリエの片隅で向き合う。裸電灯の光を頼りに、夜中まで彫刻家はうなるのである。

「駄目だ、そうしてもうまく行かない。これは絶対不可能な仕事のように思われる」(同P17)

何ができないかというと、「見える通りに描く」ということだという。現実そのものをそのまま把握する。それがやりたいことだという。見えるままに描くことは、矢内原氏の顔を立体としてとらえて、平面の画布に置くことだ。顔には空間がいたるところにある。「鼻の横、眼の下、頬の上、いたるところにある、そのすべてを描かなければならない」という。顔には輪郭がないから、どう描けばいいのかわからないといいながら、ひたすら描く。この作業は矢内原氏の二度にわたる滞仏期間中、数週間にわたって続いた。

この話に慄然としたぼくは、同じように文章を書くとしたらどうするのか?と考えた。

まず文にも「輪郭」がある。構成という名の輪郭で書き、読まれるのが文である。輪郭がない文とはなんだろう?散文以外だろうか。感情を文字におとす詩に近いだろうか。あるいは瞬間を切り取る俳句だろうか。幼な子のひとりごとのようなものか。

さらに「見える事実だけを書く」とはどう書くのか?ドキュメントといっても、筆者の目がそこにある。無味乾燥な医学論文だってなにかしらの個性がある。事実だけ書けたとしても退屈であろう。アンディ•ウォーホルの映画『エンパイア』のように、ひたすらビルの外面を撮り続けるのだろうか。じつに退屈だ。

ところが驚くべきことに、ジャコメッティの絵画も彫刻も、退屈ではないのだ。

絶句した。この境地に、なにかしら近づきたい。

どう書くかわからないとしても、どう練習すればいいかわかるだろうか?ジャコメッティのように何度も何度も書いてはポイするのだろうか?文を「写す」という作業はずいぶんやってきた。それに近いのだろうか?まだなにもわからない……


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