ついに原稿から離脱した。ぼくの目からみれば書ききった。ひとがそう言うかまだわからないが書ききれた。
最終コーナーに入って疲れがどっと出て、脱稿に向かって伏しては書き、伏しては書きの日々だった。終わった一昨日は、塩の瓶をひっくり返して台所が塩湖になった。お風呂をガスのスイッチをいれずに水をいれた。バリカンのアタッチメントをつけず刃を丸出しで剃った。血まみれにはならなかった。ぼくの頭は小惑星リウグウの地表のように丈夫だった。花粉につかまりつづけ、頭痛も収まらず、めまいがひどかった。期外収縮も感じた。やはり自分は心臓で死ぬだろう。原稿を書くというのは命を削るものだ。
書きながらいくつか確認したことがあった。
自分の基盤はやはり調査力、Based on the Researchにある。事実に対してInsight(洞察)で意味を探り、Imagination(想像)を足していく。それがAha!(ハハン)になるように。
つねにいい聞かせているのは、論を書くな、ひとを書け。論はつまらないばかりか、心に残らない。残るのはひとの動き、シーンである。そこに意味をいれろ。
ひとを書くということは、どこか自分の分身を書くことに近い。そのひとのなにかが響くから書ける。響いてこないものは書けない。自分の分身のように書けないとそのひとは生きてこない。
書くことは自分のなかにいる自分がどういうひとかを知ることでもある。自分のなかにはいりながら、自分とはなれていく。はなれた自分を見て、動かしていく。書くことは自分のなかの自分を相対化すること。
書くことは自分がほんとうはなにを欲しているか示してくれる。ぼくはだれかを説得したいわけじゃない。社会的に「こうすべき」をいいたいわけじゃない。強いていえば割れ目を読者と共有したい。その割れ目に溜まった情念をほとばしりあいたいのだ。
書くことはひとの真の魅力も見えるようになる。いただいたソーセージで世界一美味しいホットドッグをつくろう。やさしさにほだされた。
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