今年は、というか恐らくこれから数年「贖罪」について書くようになる。
ある科学者の生涯をワンワードで言えば「贖罪」だ。多くの人の命を無知ゆえに奪った。だが自分がしでかしてしまった罪に向き合った。材料を仕込んでいるとだんだん見えてきた。その人が送った人生が単なる悲劇的なものではなく、なぜ偉大なのかが見えてきた。
人の人生は罪の償い方で決まる。
たとえば仕事を取ろう。自分の仕事が正当化できるかどうか。社会のためになっているかわからないなら辞めることもアリだ。辞めなくても、その仕事を社会のためになるものに自分から変えることもできる。どちらも償い方である。良き仕事、良き社会貢献なら言うことナシだが、そういう仕事が御膳立てされていることは滅多にない。
では結婚はどうか。生まれ変わった気持ちでやり直すこともできる。どうしてもお互いのためならずなら、離婚すべしである。そして分が悪い方が償いをすればいい。私が離婚後もずっと元妻に生活費を送るのは償いでもあろう。もっと深く考えれば、なぜ相手を幸せにできないか?というところに我が罪の本質がある。それがあるゆえ、その後成就できない恋が罰になるのである……
さて、ある科学者の話にもどる。その人は自分の罪に気づけたことが大きい。気づけたから方針を変え、行動を変えることができた。世には罪に気づけず、無意識のうちに心に蓋をして生きる人が多数だ。意識できないゆえにさらに罪を重ねてしまう人もいる。その科学者はだから立派だ。
もっと凄いのは、社会に訴えたことだ。その罪はその科学者だけが犯したものではない。他のたくさんの人も犯してきた。だから自分が犯した罪の償いだけでなく、社会全体が償おうと問いかけた。それが真の科学者の態度であり「科学の償い」とも言える。その科学者が偉人たるゆえんである。
私は罪悪感を掘り下げ、その後の人生を深掘りするものを書いていきたい。一つの新年の誓い。
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