ある手記小説

物語の書き方にはさまざまな手法があるが、一人称の「手記」で構成する物語は多い。

ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』は恋の悩みで自死をするまで。ライナー•マリア•リルケの『マルテの手記』では詩作や死への恐怖が書かれた。ドストエフスキーの『地下室の手記』は社会の最低のカースト=地下にある自分を書いた。太宰治の『人間失格』は失格者という業火のインキで書かれた。

手記の形式は日記や自省や遺書などだ。内容は告白、内省、絶望や希望であり、成長もあれば死に向かう瞬きもある。いずれも「筋を動かす文」である。読者に読ませながら、読者を共演者として誘い、あるいは共犯者に仕立てて、手記を書く登場人物の追体験をさせる。手記とは「読者を舞台に上げる仕掛け」である。

そう思っていたのだが、手記が物語の「裏の筋」を提示する小説を読んだ。

まず「女の子の手記」があり、次いで「男の子の手記」へゆく。主題は二人の間に生じた事件で、いってみればほのかな恋である。女の子の手記には反省や親の叱咤、宗教観からの原罪意識が書かれる。一方男の子の手記ではそれはコンプレックスを晴らす体験でもあり、果たせなかった欲情でもある。男の子自身、結核を患ってもいる。二つの手記には異同があり、どちらが正しいのか?と読者に考えさせる狙いがあるようだ。

ここまでなら普通かも(とはいえこれをもっともらしく書く技術は高い)。だがそこに男の子の空想物語という「もう一つの手記」が挿入される。

その空想物語では病弱な男の子(男の子の分身)が出てきて、奇妙な仕事につく。瀕死の重病人に毎晩ラテン語で詩を朗読するという仕事だ。それは死に向かう弔いであり、あるいは死を呼ぶ儀式のようでもある。雇い主の女主人との葛藤や欲情もからんでくる。現実とは異なる筋書きが別の手記として挿入されるわけだ。

読んでゆくと不思議なことに、空想物語の手記の方が現実の手記よりも、この男の子の性格や行動や生と死の理由をよく伝えてくる。つまり現実よりも空想が現実なのだ。この空想物語は、現実に起きたことの「心理を描いている」ようでもある。

2人の手記の筋の上に、さらに別の手記の筋がからむ。またものすごい読書をした。

僕には久々の贅沢品でした…

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