「孤絶した人々」を研究しようと考えて、最初にピックアップしたのが引きこもりの詩人エミリ•ディキンスン。詩の理解を通じて人物を解明しようとしている。他にも数名「孤絶者」を研究対象に挙げたが、そのうちの一人が片岡鶴太郎である。
なにしろ近影写真が物凄い顔だ。仕事開始の8時間前に起床して、4時間かけてヨガをするという。ああ、この人は孤独なのだと思った。
片岡鶴太郎の『あしたは鶴日和』という絵付き自伝を読むと、なぜボクシングをしだしたか、絵を描きだしたかの理由が書いてある。この本を書いた頃(1999年)すでに「家を出る3時間前に起きる」とある。起きて自分を整えるためだという。なんと厳しい。こんなくだりがある。
自分がどういう人間なのか知りたいがために生きているわけで、人間としてどう高めていくか、そしてどう締めくくるかが、僕の最大のテーマなんです。仕事のオフはあっても、人生のオフないから、生かされているあいだは1日たりとも無駄にはできないし、僕にとっての日々を生きていかねばなりません。神様が「はい、今日でおしまい」っていう日まで、ひとりの人間としてどこまでいけるかが、僕の人生でもっとも重要なことなんです。(本書より)
生きるとは自分を知ることー真の表現者を志す者はそう思う。精神と肉体の二つを行き来することで自分を知る。老化予防や肉体自慢ではない。自分と強く向き合い孤独になる。自分だけの世界へ行く。その世界に吹く孤独の風に押されぬ肉体と怖気付かない勇気がいるのだ。そして彼はこういう。
「この身は借り物なり、いつか神に返す身なり」
体は借り物、ならばどこまでできるかやり尽くそう、限界に挑んでやろう、使い切ってやろうという。なるほど孤絶するとは物凄いパワーが必要なのだ。僕のような凡俗はただ女の温もりを求めているというのに。それもまたパワーがいるのだが…
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