全集読み

作家の全集を読んだことがない。少なくとも「意識して」読んだことはなかった。全集を読む効用とはなんだろうか。

若気の至りのころ『ランボー全集』堀口大学訳を買った(フランスの詩人)。分厚い1冊で詩の全集だ。だいたいは読んだが基本的に本だなに陣取った。全集ではないがJ.D.サリンジャー(米国の作家)は入手できる邦訳と半分以上を原文で読んだ。未発表の隠れた名作があるそうでいつか読みたい(米国の某大学図書館にしかない)。好きな作家だが、ほんとうに「えぐってきたか」といえばどうだろう。

最近、あるフランスの作家の全集を買い求めた。その人の作品は僕をえぐってきたからだ。わざわざ神保町に揃いを取りに行った。拙文を書く身で、この人は絶対に学びたいと思った。有り体にいえば「盗みたい」と思ったのだ。表現や構成の巧みさを盗もう、登場人物の造形を盗もうと思ったのだ。

だが読み出すとそんなナマやさしいことではなかった。この作家は人物から書く。人物の着衣や癖や動きや匂いや病やなんやら、すべての描写はその人物を暗示して書く。情景描写はすべてその人物につながる。筋はそこから生まれてくる。文を書くとはこういうことかと、僕を戰慄させた。

読めば読むほど、その作家が何を書こうとしたか知りたくなった。なぜ書いたか知りたくなった。その人のもつ原罪を知りたくなった。どう救済を求めたか知りたくなった。

そしてついに自分自身を知ろうと思った。もっと深く掘ろうと思った。掘り出すと出てきた。あれよあれよと汚いものが出てきた。自分が誰で何を書くべきかどう生きるべきか突き抜ける体験、それが全集読みだ。

寒くなりましたね…

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