長く「人物を書く仕事」をしていると、書きやすい人と書きにくい人にあたる。その違いをひとことではいえないが、こういう鉄則がある。
「この人は書きやすいですね」といわれる人に限って書きにくい。
どこで「書きやすい」と判断するのか?その人に明確な主張がある、こういう主義である、こんな本を出している、言ってることがわかりやすい…などがその判断根拠なのだろうか。だが書き手にとっての書きやすい/書きにくいという基準は、そこには一切ない。
それらはみんな「論」だからだ。
まず、物語の読者は「論を読まない」。その人の行動や決断の背景、その心理を読みたい。人物の行動や心理を考えたい。それを読ませて、考えさせて、何かをつかませるのが人物物語である。
さらに「論」とは「結果」である。論とは思考の結果、行動の結果をまとめる言葉だ。その人の論文を敷衍するために書くわけではない。なぜそこに至ったか。論のずっと前にあるものがほしい。
ゆえに、その人がいくら論文やエッセイを書いても、本を出していても、主張がとんがっていても、書きやすさにはならない。逆に、論があればあるほど書きにくくなることがある。人物物語はその人が動いているか、動かせられるか。性格であり人間性を書く。だから「論より行動、論より心理、論よりエピソード」なのだ。
そこで、論が出てくる源、それを推論できる手がかりがほしい。それを見つけるのが書き手の役目である。きっとすでにそれは手元にある。それを読みこみ、想像するのが自分の仕事。考えて、考えて、考えて、考えて、また考える……
エピソードもなく、何気ない描写や行動で、その人間を描けるようになれば一人前。
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