昨夜のつづき。辻邦生による「日記のなかの作家の顔」(『ジュリアン•グリーン全集 月報)には次のくだりあり。
モーリアック(『愛の砂漠』のフランス小説家)があるインターヴュアに「カトリックでありつづける小説家にとって、人間とは、つねに、自分をつくりつつあるものか、つねに、自分をそこないつつあるものか、なのだという点に注意して下さい。人間は一回だけ鋳造され、いつまでもそのままで動かずにいる存在ではありません」といって、カトリック作家の本質を動的なものである所以を示している。
カトリックは「ミサを磔刑の場」として考え、生きる上での苦悩や葛藤と戦い、信仰を通じて救済を求めることだという。そういうものであるか、無信仰の僕には確信がないが、希望を求めて文章を書くということは戦いであり苦行であるのはわかる。
と考えたとき、わかった。カトリックには「神という確信」がある。罪はキリストが磔刑になって贖ってくれた。十字架に到達すればいい。どう達するか、どう近づけるか、それが命題であり、正しいという確信である。
一方、日本人には確信がないのではないだろうか。
無宗教だからというだけではない。社会で多数の人が「これだ」と言って指差せるもの、共通の確信がないのではないか。禅や仏教に帰依する人にはあるだろう。それもない人には、たとえば家族だろうか。離婚は3組に1組だ。子供か。裏切られないといい。外に目を向ければ、たとえば富士山か(すなわち富士信仰)。自分の仕事だろうか。まさか会社という人はいないだろうが…
江戸時代の民衆はエヘラヘラと日々楽しくやっていたと書いたのは渡辺京二(『逝きし世の面影』)。だが確信はどこにあったのだろうか。日々の暮らしだろうか。暮らしが楽しければ確信は不要なのか。ともあれ、現代日本社会に自殺者が多いのは、確信の不在ゆえではないだろうか。

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