先日、町内会の班の集まりがあった。テーマはゴミ出しである。日本では道端にゴミを出す。ちゃんと置き場がある集合住宅でなければ、網をかけたり木枠の置き場に置く。その置き場の提供や清掃はだれかがやっている。近くのゴミ出し班ではXさんである。だが大変なのか、もうやってられんわとなった。そこで場所と清掃の係りをどうするかの打ち合わせ会である。
会合で、Xさんはのっけから怒りだした。
「分別はだらしない、収集が持ってかない時は自分で保管して出しなおす、元商店街なので通勤通学の途中で区域外の人も出す、皆から1000円ずつ徴収して網を買ったが予算は使い込んでいない、残額はXX円ある、しかしねあたしゃ性悪説に立ちたくはないがホント悪い人ばかりだよ!」
まあまあ、と皆でとりなしたが、Xおじさんは怒る怒る。なぜなのかなーと見ていてわかった。おじさんは認知が出ている。ただ妄想を組み立てては怒ってる。口をつぐんだなーと思えばまたがなりだす。こんな老人になったら嫌だなと思った…
その集まりには近所三軒両隣、ゴミを出すおよそ20世帯/軒のうち3分の2くらいが出ていた。「普通の人々」が大半だが、まったく家の前を掃除しない隣の奥さんがいた。ひょうたん屋は耳が遠い(ある理由でそういうふりをしているらしい)。いつも暇そうな調剤薬局の奥さんはいて、もっと暇な本屋は欠席で、隣家の外国人も不在、その隣の居酒屋もいない…これで会合になるのか?と思ったけれど、それよりも重要なことが見えた。
ゴミには人生が詰まっている。
それぞれのゴミからの想像は物語になる。それぞれの人生をゴミで描くことができる。こういう発想は自分にはこれまでなかった。常にテーマやストーリーから考えてきた。そうではなく、生活の断片にこそ真のストーリー、真の怖さがある。それがガァッと自分にきた。大収穫だった。
初めまして。
素晴らしい発見だと思います。
Rumikoさま、ありがとうございます。その発見に気づいたのは夜中、起きてDiary(コクヨの野帳)にジワジワ書いてまた寝ました(^^)まだ頑張れるかもしれないと思いました。どうもありがとうございます。
いいえ。
こちらこそ有難うございます。
ブログ楽しみにして居ますね。