ワキ=受容する人

能におけるワキとは「能の舞台で、主人公(シテ)の亡霊と語って話を進めていく役目」である。ワキが怨念や悔い改めを聞いて、まあまあもう時間も経っているのでカンニンしてやったらどうだ、という態度に出ると、シテも話してスッキリしていく。観客はワキを通して聞くことで、荒唐無稽な話も本物らしく思う、というのが木下順二氏の主張である。(『複式夢幻能をめぐって』)

現代の物語でワキはいるのだろうか?

大河ドラマではナレーションが入る。いわく、これこれの幼少時代を過ごしたXXX丸は、元服をすますと生来の猛々しさを出して…云々である。ナレーションはワキなのか?いやナレーションは進行役、はしょったところの補いである。では「家政婦はミタ」はどうか。ミタは目撃者兼主役であって、ワキは受動的、もっと脇役である。では数歩引いて、書評や解説者はどうか?といえば、ちがう。ワキは物語の内部にいるのだ。

そこでふと思い出すのが、J.D.サリンジャーの『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』である。

この中編は、繊細な男性シーモアが、自分の結婚式の当日に式場に現れなかった騒動を描いている。花嫁側の参列者たちが口々にシーモアの悪口を言い合う。当然だ。そこでシーモアの弟のバディは彼らをとりなしていく。そういう会話の中で、ひとり物言わぬお爺さんがいる。花嫁の叔父である。山高帽をかむった小さなお爺さんは、ただニコニコして何も言わない。なぜか?耳が遠くて言葉も話せないからだ。そこで筆談が始まる。お爺さんはニコニコしてうなずくだけ。

サリンジャーがここで暗示したのは「禅僧のごとき存在」である。何事もただ受けとめて抗うな。ただ見守れというメッセージ。それが人間を成長させる、というのだ。

ワキとは、強いて言えば「和尚さん」なのだ。いや強いて言わなくても設定がもともと和尚さんだが、そういう何事も受容する人である。受容する人を前にすると相手は落ち着ける。そういう存在になろうとするところに、ひとつの人間救済がある。


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