木下順二氏による、能を通じた日本文化の分析は鋭い(『日本文化のかくれた形』)。
ワキ(諸国を旅する僧)がシテ(主人公)に出会う。シテは里人の姿で出てくる。井戸の水を汲んだりしているが、それは恨み、成仏できない思いから発している。ワキはそれを聞いてやる。聞いてくれることによってシテ(しばしば亡霊)は冷静になっていく。そして我に帰り、自分の過去を語り出す。
「200年前の合戦で死んだ者である(清経)」「200年前に悲恋のまま死んだ女である(井筒)」「恋する人からのいじめにあって死んだ者である(恋重荷)」。シテの亡霊は、ワキに、どうぞ回向してくださいと頼んで成仏していく。
木下順二氏はこの小論(複式夢幻能をめぐって)の最後でマクベスに触れる。(マクベスを久々に読む)
マクベスはダンカン王を殺して自分が王となる。さらに仲間のバンクォーまで殺す。無限連鎖の人殺し地獄に向かってしまう。その殺人の血に濡れた自分を、冷めた眼で見ている自分がマクベスの中にいる。どうしようもない運命に落ちていく自分を見ている。
それで僕は、デカルトを思い出した。「我思うゆえに我あり」。自分がこうだと認めたことだけを認める。その中で生きていく。ゆえに自分は善でなければならない。だが善であることはむつかしい。
どうしても善になれなければ、ひとは複式夢幻能のシテのように狂いだす。自分が禍や罪によって成仏できない人である限り、負のスパイラルから脱出口はないからだ。一方で、逆らえない運命に落ちる「負の我」を見ている自分がいる。その我は善であるのか?これが20世紀の自我の分裂、または自我の崩壊というテーマにつながる。
負の自分を善くするのは、善である自分が出てこれること。そのためには、過去のうらみつらみを聞いてやって、亡霊に過去に戻れと勧めること、それが複式(現在と過去)の夢幻能であろう。
文献『日本文化のかくれた形』複式夢幻能をめぐって 1984年 岩波書店
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