複式夢幻能にあるリアリティ

3人の賢者による『日本文化のかくれた形(かた)』(岩波書店 1984年)を読了した。

加藤周一氏による、「日本文化にある今ここ主義」(日本人は常に現在だけを見て、過去は水に流し、未来は予想しない)を読了後、木下順二氏の能に関する洞察が興味深いので、読める時がくるまで、半年以上寝かせておいた。数日前ようやく読んだので、その感想をまとめておきたい。

劇作家の木下氏はドラマのリアリティにこだわってきた。劇という嘘の物語をいかに観客に現実だと思わせるか。その方法を、能にある「複式夢幻能」に見出したという。複式夢幻能の意味は次の通り。

「旅人や僧が、夢まぼろしのうちに故人の霊や神•鬼•物の精などの姿に接し、その懐旧談を聞き舞いを見るという筋立ての能」

だが木下順二氏はそれは浅い見方だ、という。世阿弥の『井筒』と『実盛』を例に、複式の意味を解いていく。

井筒(いずつ)』のあらすじはこうだ。

諸国を見て旅する僧が、奈良の在原寺に行く。そこに古い井戸があり、ぬらりと女がいる。女は塚(お墓)に花を添え、水をくれている。なぜそんなことを?と僧が聞くと、女は昔ここに業平という男がいたという。僧はそれは200年も前のことだが、あなたは在原業平のゆかりの者か?と問う。すると、女は200年前のことだが、実は私は業平の妻であると告白する。業平は女好きで、不倫をしていたが、当時の妻はただ耐えていた。だが実は恋しいのに裏切られた思いは強かった。だから200年経っても成仏せず、井戸(井筒は井戸の意味)のそばに出てくるのだ。こわーい。

この話を問うていく僧は「ワキ」である。ワキとは能の舞台で、主人公シテの亡霊と語って話を進めていく役目である。

同じように『実盛(さねもり)』でも、遊行上人という僧にしか見えない亡霊が現れる。亡霊は200年前に滅ぼされた平家の斎藤別当実盛であり、いまだに成仏していない、なんとか成仏させてくれと僧に頼むのだ。

両方の話に出てくるワキ、すなわち僧の存在は何か。木下氏は、「われわれ観客の直接の代表ではなくて、舞台の上にいる一人の見物人である」という。だがワキは「荒唐無稽な話を信じているから、観客もまた物語を信じてしまう」という役割があるという。

つまり物語中に登場する「聞き手」の存在によって、「そうか、そうか」と嘘っぽい話が本物らしくなる。そこでは200年と現在という長い時間差も、「いまだに解決していない嘆き」によって、現在との関わりをもってくる。僧が「では今解決してやろう」ということで200年の恨みが解けていく。200年前が今と重なる、そこに第一の「複式」、二重の意味がある。

それだけではない。能の舞台の観客は、業平や実盛にもなれるし、その話を聞く僧にもなれる。

シテは「自分が果たせなかったこと、死にきれない思いを、幽霊となって語ろう」。ワキは「それを引き出して、皆に聞かせてやろう」シテの気持ちになったり、ワキの気持ちになったりして、運命で没落した人にもなれれば、その話を聞いて同情する人にもなれる。観客は舞台と同化し、人の運命を見て、自分の運命と同化させていく。能を観るということは、自分を観ることになる。そこに第二の「複式」、二重の意味がある。

木下氏は最後にシェイクスピアの『マクベス』を例に引く。マクベスは主君を殺し、その子孫をまた殺しと殺しを重ねてしまう。回れ右がきかなくなってどんどん血の海に染まっていく。そういう自分を錯乱しつつも見ている自分がいる。それがマクベスの悲劇の本質である。結局、「運命とは人の性格にもとづくもの」(ゲーテ)なのだ。どうすることもできないのである。

能とはかくも大きな世界観がある。

井筒と実盛は本書も参照した。

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