突き抜けて、こだわる

幾つになっても煩悩にうなされてジタバタと生きてきたが、どうやら突き抜けて生きれそうだと最近感じている。

齢を一回りしたこと、物語をひとつ書き上げたこと、なによりも頭を坊主にしたこと、これらが効いた。こだわりがなくなってきた。

するとストレスが激減した。だれかがこう思っているだろう、こう言われるだろう、あのことはこうなるだろう、といった空想夢想夜想が減り、「どうでもいいなあ」「どうにかなるだろう」「何も起きていない」と思えるようになった。つまりこだわりが無くなってきた。

そこでふと思う。こだわりがなくなるのは果たしてよいことなのか?

こだわりがないと生きることにこだわらなくなる。いつ死んでもいいと思い出すのではないか。日々全力投球するぞと口でいうが疲れやすい、いずれお迎えがくる身だ、マアいいかとこだわらなくなる。

まして先日40歳の女優竹内結子さんの自死があった。あの翌日だろうか。あれお迎えかな?というふぅーっとしたものが体にまとわりつくのを一瞬感じた。体調に変りはなく錯覚なのだが、マアいずれ来るよねえとこだわりなく思えたりして。余談になるが、クローゼットには女優の生きざまがこもるものだ。女優であることにこだわって彼女は死んだのではないだろうか。

こだわらなくなると人は死ぬ、だがやはり最後までこだわる、ということか。

僕の突き抜け感をつくったのは坊主頭だと書いた。サッパリ生きれるようになれたのは事実だ。髪へのこだわりが消えただけでなく、白いポツポツも退治しやすい。「60歳を超えたら実年齢に見られない努力をするべきだ」というドラマの中のセリフがあったが、僕なりに気を遣おうとしだした。見てくれをよくするのは悪いことではないでしょ。

…あれ?こだわっているじゃないか。こだわらないようにしたのにこだわるとはこれいかに?これでは元の木網ではないか。煩悩リターンズ。

もう一度考えなおそう。そもそも突き抜けるとはどういうことなのか?

だれかに影響を与えたい、栄誉が欲しい、お金が欲しいなどという煩悩を突き抜けることなのだろうか。その通りだと思うが、かすかに何かちがう。自分の天命を知り、やりたい放題やってのける。それもかすかにどこかちがう。

ではこう言い切ってみよう。天命に生きるには栄誉やお金も必要なのだ。それを認めることが突き抜けることであると。自分は煩悩にまみれている。色欲も金銭欲も名誉欲もある。若く見せたいと思い、運動をし、ダイエットに気をつかう。一方で、俗と離れた天命も知り、創造することに生きがいをもつ。

どっちつかずなのだが、どっちもあるのが事実である。だからこそ、そういう「自分に正直であることにこだわる」のだ。まっすぐまっとうに生ききれなくとも、まっすぐまっとうでもあろうとすることにこだわる。そういう自分を認める自分をもつことが、突き抜けの正体ではないだろうか。

僕はしょせんそれほどの人間だが、剣豪宮本武蔵は違う。

武蔵は「仏神は貴(とおと)し、仏神をたのまず」と『五輪書』に書き遺した。その意味は、仏や神を尊敬はしても、頼ることはない、である。武蔵が洞窟で座禅を組んでいると、光が顕れた。それは仏の光だと見抜いた武蔵は、刀を抜いて光を叩き切った。自分が自分であることを証明するのに神も仏も不要、自分はただ自分であると貫いた。

突き抜けてもこだわろう。こだわることにこだわろう。

雲の向こうに光はある。きっとある。信じて生きよう。
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