勉強には正坐がいい、正坐するとアタマがよくなる…といわれたのは、はるか昔、昭和のころであろう。当時の文豪は、畳の上の和机に座り、万年筆で文を書いていた。ところが同じころ、『ライフ誌』に掲載された写真を見れば、プリンストン大学高等研究所の研究者は、ソファに寝そべったり、机のうえに足をドンとのせていた。
では考えるには正坐がいいのか、プリンストン式がいいのか?といったやわらかいテーマを物理で解くのが『物理の散歩道』(ロゲルギスト著)である。このテーマは、六人の物理学者の共著である昭和三十八年の初版第1集のなかの「ラジオ勉強考」。筆者は(K2)木下氏である。

筆者は和式が「緊張型」とすれば、電子工学でいう<直流バイアス>だという。脳は外からの刺激(たとえば読書)に反応する器官である。刺激が入力信号となって、脳はそこに直流の電圧をかける。すると読書情報は前とちがった出力となって出てくる。これを直流バイアスというそうだ。まるで真空管である。
一方、ラジオをずっとつけながら勉強するひとがいる。昭和の文豪はラジオは邪魔なので消すが、受験生はつけていた。それの方が勉強がはかどるからだ。ラジオから出てくる刺激はたえず変化する<交流バイアス>である。トランジスタ時代になったのだ。
さてどちらがいいのか?木下氏はものを考えるときは音楽なしに軍配を上げるが、こうも書いている。
私の意見ではものを考えるやり方に凝視型と走査型の二つあって、走査型のひとだけが<ながら音楽>をたのしみ、それによって能率を上げることができるのだと思う。凝視型のひとは、一つ一つの情報を、丹念に、時間をかけて点検し、写真レンズの正確さで固定し、把握しようとする。走査型のひとは、多くの情報の上を飛燕のように往復走査しながらキラリと光るものをとらえる。(同書P217)
さていまは、そこから半世紀たったWeb時代。
ラジオ時代以上にわれわれは散漫になった。沈思黙考した数秒後に、ツィッターで煙のように消える140字を書く。恋人と話ながら、スマートフォンでだれか別のひとに絵文字を送ってコミュニケーションしている気になっている。これは<Webバイアス>がかかっているといえそうだ。コロナウイルス禍を見れば、首長さえもただ情報にふりまわされて右往左往する。走査型というより迷走型である。
Webは悪いことばかりじゃない。たとえば天才棋士、藤井棋聖を見ていると、かれは凝視と走査を統合した人間である。盤面の一点凝視と全体思考、過去の打ち手とそこから先の打ち手をつなぎ、打ち手のパターン化と破壊をしている。まさに集中と分散を兼ね揃えたマイクロプロセッサである。
彼ほどでなくても、Web時代になってひとびとの処理能力は飛躍的に高まった。莫大な情報とその隙間を交互に集中できる時代である。そういう時代にわれわれは生きている。
だが昭和の真空管時代の脳は、トランジスタ脳となり、プロセッサ脳に進化しているのだろうか?必ずしもそうはいえない。平成に生まれたひとだって、脳はときに(ひとによってはいつも)疲弊している。環境は激変したが、「脳はさして変わっていない」ということだ。
だから読者とは、疲弊する脳をもつひとびとだともいえる。だから文の書き手としては、いっときでも読者を静かな散歩道を歩いてもらいたいとも思うのだ。
本書の「はじめに」にこういう一文がある。
(この本は)われわれのまわりにある種々雑多な事柄をとらえて、これを物理学者の見方で掘り下げてみたというのが大体の線であろう。原子力やエレクトロニックスなどで最近目ざましい発展をしている近代物理学のハイウエイの目まぐるしさを避けて、わきの静かな散歩道に読者を案内しようといのが、われわれのねらいである。(本書iii)
本書の執筆者のひとりのご子息にお会いしたので、本書を読んだ。最後に余談。僕の執筆椅子はバランスドチェア。緊張型?です(^^)

コメントを残す