ひとはなぜ悶々とするのか?その答えの尻尾を先日つかまえた。

一定の長さ、たとえば50年ほど生きてきたひとは、ことの大小あれど回り道をしてきた。そこに悶々として泥道を歩いた、暗くて長い道のりがあるだろう。
先日会ったそのひともまた、ながらく回り道をしてきた。仕事でも、プライベートでも回り道をしてきた。これをやって芽がでず、あれをやって芽がでず、悶々とした。やっと芽が出たと思えば、出る杭打たれるの法則どおりぴしゃりと打たれ、また悶々とした。ひょんなことから、回り道してきたときにやったことが収束してきた。かたちになってきたのだ。幸せな日々がきた。それで悶々としてきた日々に終止符が打たれたはずだったが、栄誉を得た今もまだ悶々としているという。
それを聞いてわかった。悶々とするのは前向きだからだ。
前向きでないひとは悶々とするわけがない。前向きだから現在に満足できず、もっとできるはずだと努力し、だから失敗し、だからまた挑み、また失敗する。そして悶々とする。満足して、虚勢を張って、偉そうにして、悶々の日々が遥か彼方となればすでに後ろ向きである。
悶々はまたつねに「周辺を歩く」。
回り道をするともいうが、それはたんなる迷い道ではなく、その人が目指す中心にあるものの周りを歩いている。俗に言う「天職を発見する」までの回り道はどんなことも「こやしになる」というが、それもあるだろうが、天職たるもの=中心にあるものが見えずに、だが無意識に、その近くを歩いているのだ。運命的に周辺を歩いているのだ。
いつかなにかのきっかけがあって、「中心にあるもの」に導かれる。
そのきっかけはおそらく「あふれるほどに周辺を歩いたあと」にくる。もう諦めかけたときに、「ほらほらこれだろ」と神さま(恩師、先輩、仕事をくれるひと、友人……etc.)が道を授けてくれる瞬間といってもいい。中心に入れば、そこでまた悶々とすることがあっても、今度は色合いがちがう。悶々の色は、かつてのグレーからホワイト、あるいはスカイブルーに変わっている。そこで今日の格言。
人生には95%の周辺と5%の中心がある。
余談である。この「周辺」は英語では「Circumference」というが、僕が研究している詩人エミリ•ディキンスンを理解するキーワードでもある。ひとりぼっち、あるいは孤絶のまんなかにあるものをめぐって、彼女は迷い、疑問をもち、感動し、生きて、詩作をした。周辺にこそ、その人間の生き様がある。周辺の経験の総和を微分して中心を知る。僕はそんなことを書いているような気がする。
コメントを残す