一樹百穫、ひとはみな枝

ことばの木というものが我が家にある。2020年夏の姿。

10年前には次の画像のように、実にこざっぱりとした、まだ青年の姿であった(^^)

最初パキラは3本の幹がよじれるように凛と立っていた。だが根を腐らせてしまって、大手術を経て幹1本だけ残った。下の画像はその当時である。その1本も葉は落ち枝は枯れ、まるでススキのようになった。だがなんとか今は持ちこたえている。それどころか新たな幹になるやもしれない枝を発している。

そこで、柄にもなく中国の古典のことばを紹介しよう。「一樹百穫」という。出典の『管子(かんし)』権脩(けんしゅう)に次の文がある。

一年の計は穀を樹(う)うるに如(し)くはなく、十年の計は木を樹るに如くはなく、終身の計は人を樹うるに如くはなし。 一樹一穫なる者は穀なり、一樹十穫なる者は木なり、一樹百穫なる者は人なり。

意味するところは「一年の計は穀物を植えることに及ぶものではなく、十年の計は木を植えることに及ぶものではなく、終身の計は人を植えるに及ぶものではない」、くだいていえば次のとおり。

一を植えて一の収穫があるのは穀物、たとえば米や麦。一年ごとに植えなくてはならない。一を植えて十の収穫があるのはだ。数年かけて育てば収穫が何度もとれる。だが「桃栗三年柿八年」「梅は酸いとて十三年」「柚子の大馬鹿十八年」というように、収穫までには辛抱がいる。

そこで、一を植えて百の収穫があるのはひとだという。ひとを植えよ、人を育てよ。ここから一樹百穫のことばが言い伝えられてきた。

1年で何ができるか。仕事なら短期プロジェクト数本か。1年の仕事が10年となれば、ひとつのまとまったスキルの確立となる。技術しかり開発しかり。李下に冠を正さず、慢心はいけない、黙って10年精進せよ、だがひとはよく折れる。

10年で折れてどうする。果実がどんどん穫れるようになるには、20年30年かかる。それは自分を超える仕事となる。だから世代をまたげ、ひとを育てよ。それが一樹百穫である。

一樹百穫はぼくなぞにはまぶしい。どうすればできるのだろうか。

まず一樹=リーダーがたいせつなのだろう。一樹の根っこが善くなければひとはついてこない。根が腐っている(ブラックやパワハラ)のでは部下は腐る。一樹の幹が太くなければ部下に頼られない。一樹がすぐ枝打ちをするようでは(成果の横取り)部下は逃げていく。集まってきたひとに養分を与えて枝に育て、枝と枝(部下と部下)を上手に競争させてこそ、太い枝になる。やがて別の一樹となる。

百穫のためには、かならずしも組織リーダーでなければということでもない。直接ひとを育てなくても一樹になれる。たとえば、ひきこもりの米国の詩人エミリ•ディキンスンは一樹百穫である。1800篇もの優れた詩を残し、それを後年数えきれないひとが読んでいる。日本でも源氏物語なぞはものすごい一樹である。表現や教えもまた百穫の元になれる。

百穫のためには、自分を突き放して見れることも必要だ。

世には上には上がいる何かを成し遂げたと自負しても、けっきょくそのひともまた人類の一本の枝にすぎない。誰しも先人の幹から分かれてきた一本の枝であることを知るべし。

と思えれば、自分は枝なんだ、どんな枝でもいいのだ。必ずしも太く、頼もしく、立派な枝でなくてもいい、細くて弱々しくて醜い枝でもいい。まだ死なないぞ!芽を出すぞ!そういう枝でいい。それが自分だから。

枯れそうになって枯れないのは、美しくはないが、自分の生きざまだと思っている。自分がどう生かされ、どう恩返しできるか、自分が一人の幹であることを意識できればいいゆえ。

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