エミリ•ディキンスン【18 野にまします蜂よ】

アメリカの孤独の詩人、エミリー•ディキンソンが残した1800篇の詩から代表作150篇をセレクトして、批評を加えたのが本書『DICKINSON』(ヘレン•ヴェンドラー著)である。定評ある批評家ヴェンドラー(ハーバード大学教授)の本書は批評もよく、おもいがけず安価で入手できたので、じっくり読んでみたい。

かねてディキンソンはぼくの心を射抜いた詩人だ。彼女の生涯を描いた映画も観てないし、解説本も読んだこともないけれど、詩作を読んで、彼女はぼくの隣人だと感じた。同じ孤絶感を共有しているのではないかと。だからいわゆる文学研究者が訳すよりも、自分が彼女の詩を訳した方がずっとそのスピリッツがつかめる、へたでも彼女の孤独な人生を、その詩を理解できると思っていた。

ヴェンドラーは本書で150作品を取り上げ、それぞれ解説をふしている。ヴェンドラーのその解釈は折々紹介するが、メインは、ぼくがディキンソンをどう感じるかという挑戦である。ディキンソンのひとりぼっちの人生を私なりに推論し想像するのが真のねらい。そのガイドに本書を使わせてもらう。そもそも詩なぞ訳すものではないのだと、あらかじめ逃げも打っておきたい。

最初の詩は『In the name of the Bee – 』、エミリ•ディキンスンの全詩の通しナンバー#18『The Gentian weaves her fringes —』の一部である。

In the name of the Bee –
And of the Butterfly –
And of the Breeze – Amen!

この三行詩の原典は、いうまでもなく「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」というカソリック教会での祈りである。

In the Name of the Father,
and of the Son,
and of the Holy Ghost, Amen.

ディキンソンは父なる神を「Bee(蜂)」に、その子キリストを「Butterfly(蝶)」に、聖霊を「Breeze(そよ風)」に置き換えてうたった。それもBで韻を踏んで。これはことばの遊びなのだろうか。一読して、まずこう思った。

音だ

蜂の羽音のブーン、蝶のパタパタパタ…風はそよそよと吹く。高邁なる宗教的視点なぞみじんもない、ことばの遊び、音から閃いた詩ではないかと思った。ヴェンドラーの解説もディキンソンの「」に着目している。安息日に、野に出て、蜂と蝶を見たのだと考えている。

問題は解釈だ。ぼくはキリスト者ではないが、神、キリストはわかるが、「聖霊とは何か?」という解釈は神学者でも一致していないという。だがここでは明白だと思う。聖霊とは自然である。自然のなかで、風の音から感じる神秘体験をディキンソンはよんだのだ。

ブンブンいう蜂があちらへこちらへと蜜をとり、美しい羽をもった蝶がそれを追いかける。かれらをおすのはそよ風だ。それが聖霊体験だとディキンソンは感じたのだ。神との邂逅は教会ではなく自然のなかにある。そうディキンソンはうたった。教会で日々唱えられる、呪文のような呼びかけよりも、神を感じたいなら外へ出よ、風の音を、羽音を聴け、といいたかった。詩を“郷訳”してみよう。

野にまします蜂と蝶よ
聖なる風にのって、アーメン

と、書き終えたら、部屋にハエがはいってきた…ブンブン言っている。神がかりではなく、気がかりである。

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