意見のちがい

意見のちがいで友だちを失うのはつらい。意見はその人となりを表すこともあるけれど、おおかた知識不足や思い違いのせいである。コロナ騒動でそれを思いしった……

外来患者の3%に抗体 神戸市立病院調査、千人対象」のニュースによれば、外来患者無作為に血液検査をしたところ、約3%にコロナウイルス感染の抗体ができていた(IgG抗体だそうだ)。感染して陽性にならない人が相当数おり、その数を含めれば、発症率も重症化率も致死率もかなり低い病気だとわかってきた。インフルエンザウイルス並みかそれ以下だろう。

欧米からも感染無発症の割合が5〜10数%と伝わる。マドンナもそうだった。ぼくも2月下旬に熱っぽくなったとき、すでに品薄だった体温計を買った。ひょっとしたら感染無症状なのかもしれない。苦しんで死ぬ人もいっぱいいるので用心すべしだが、ひとことでいえば…

「騒ぎすぎ」。ぼくもずいぶん騒いだけどさ(笑)

ぼくは最初から大したものではない、免疫のない風邪ウイルスだから危険だが集団感染でしぼむと考えた。だがそれはワイルドすぎていた。集団免疫では犠牲者が多すぎて、検査>隔離>治療体制を構築しつつ、2-3年かけてなじむしかないとわかってきた。ぼくも知識が足りなかったし、まちがっていた。

それ以上に、ぼくはコロナのせいでたくさんのものを失った。

「騒ぎすぎ」と書くたびに「友だち」をなくした。Facebookはそれでやめた。Twitterでもフォロワーをなくした。このブログでもずいぶん読者を減らした。社会問題化すると仕事を失った。収入は激減した。愛する人も離れていった。あらゆるものを失いすぎるほど失った。

意見のちがいはどのくらい重要だろうか?

Twitterで「自分と合わない人とは距離をおけ」という書き込みを読んで悲しくなった。意見なんて知識不足にすぎない。その場の感情もある。もちろん主義主張に違いはあるかもしれないけれど。

作家の平野啓一郎氏は「分人」という。「人には、対人関係の数だけ、そこに合わせた自分の個性が存在する」。つまり仕事の人格、友人との人格、恋人との人格、社会問題との人格がある。それぞれ違うし、楽しい自分もいれば真面目な自分もいる。コロナはそのうちのひとつ、社会問題の分人の争いである。それ以外の人格まで否定しあうのはおろかである。

哲学者のアランは「幸福論」のあちこちで、人に性格などない、その場その時の体調や思い込みで左右されるだけである、根っこでは人は大きく変わらないと書いている。

作家の山岡荘八氏は「徳川家康」のなかで、「人の心の奥には御仏と悪鬼がともに棲んでいる。悪鬼ばかりの人もなければ、御仏ばかりの人もない」と書いている。相手の鬼と交わると、自分も鬼とならねばならない。だからケンカになる。

人を意見だけで判断し、区別するのはよくない。あたりまえなことがなかなかできないのだが…

もうコロナウイルスのことを書いたり悩んだりするのはやめた。感染して人に広めたくないから三密は守るし、マスクも励行する。政府行政の指示に従う。でも意見をぶつけあうことは、ぼくはもうしない。

焼け野原になった心に、一本、二本と緑を植えていく。

おぬし、たべるのか?


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