愛と恋というコトバ

花開く春は恋愛の季節。愛と恋は何が違うのか。その違いをコトバから考えてみたい。

私が「愛とは疑うことであり、恋とは変わることであり、乱れることである」といっても、「そうだ」と即座に肯く人が何人いるであろうか。(「野口体操 おもさに貞く」P185)

体操家の野口三千三氏はコトバの思想家でもある。野口氏はその著書「おもさに貞く」で、愛は疑い、恋は乱れであるという。どういうことなのか、それぞれ見ていこう。

まず漢字の分解である。

「愛」の漢字の上半分は「旡(ケ•キ•カイ)」で、「人が口を開けて後ろを振り返る」の象形文字からだという。下半分の「夂」は、人の全身の姿を表す。あわせて「振り向いて思い慕う姿」となる。なるほど、愛とはそのようなものかもしれない。ところが野口氏は意表を突いて、漢字の「疑」もまた「人が後ろを振り返って立ち止まる姿であり、愛と同じである」という。

愛と疑はもと同語で、のちに字義が分化して、愛は好意的肯定的な方向に着眼し、疑は否定的な方向に着眼するようになったコトバと考えられる。(本書P189)

「疑」は和語の「うたがひ」が語源であり、「空違(ウツタガヒ)」と書いた。その意味は、目下の状況に対して、情報はあっても決断ができない。そこで自分を「空っぽ」にして神様にどうすべきかお伺いを立てる、という意味だそうだ。たしかに「この恋に走るべきかどうか」と神社にお伺いを立てる人もいれば、「どっちにしよーかな」と二股天秤にかける人もいる。野口氏はさらこう書く。

人間における愛は、完璧で確固不動なものではなく、絶えず揺れ動き変化し、流動する。真実なるものは何か、ほんとうの在り方•生き方は何かと、何回も何回も繰り返し繰り返し立ち止まって確かめ、それを求め続ける人間の行為を「愛」といい「疑」という。(本書P189)

愛とは疑いと背中合わせなのだ。次は「恋」だ。漢字「恋」はどういう意味があるのか。恋の元の字は「戀」である。

「戀は<心+音符>からなる会意兼形声文字で、心がさまざまに乱れて思いわび、思い切りがつかないこと。乱や巒(ラン=連なって続く山々)、孿(レン=もつれあって生まれる双生児)、攣(レン=手足がもつれてひきつる)と同系の言葉である」(本書P192)

恋とは乱れ、もつれ、ひきつることだという。これはわかりやすい。「恋に破れて」と言うし、恋すると勉強や仕事がおろそかになることもある。

恋には「心」がつき、愛には「夂=全身」がつく違いも興味深い。恋は心ですること、愛はからだですることなのだろうか。たしかに抱きしめるとき「あたしを愛して」とはいうが、「あたしに恋して」とは言わない…

さらに興味深いのは、不倫である。不倫はバレないうちは「力になる」ものだ。仕事や生き方が前向きになることが多い。ところがいったんバレると調子を崩す。ゴルファーのタイガー•ウッズはバレる前は連勝、バレたあとはヘナヘナに。他にも例は多数。不倫は最初は恋であり(お互いに乱れる)、やがて愛となる(妻にもオンナにも疑われる)。

まとめると、こんなことはいえそうだ。

恋ではほんらいの「自分が消える」。乱れてどう生きればいいかわからなくなってしまう。自分の力ではどうしようもない。それも心地よいのだが、ながくは続かない。

一方、愛はちがう。ほんとうに愛するならば自分から「自分を消す」ことになる。ながらく恋に惑い、嘆き、求め、泣く。その時期が過ぎて笑える日が来たとき、相手のためにどう生きるか、なにをするかという、真の意味での自主性が出てくる。自分を喜んで消す、それが真の愛である。

あなたの恋やら愛やらが、乱なのか疑なのか考えてみてください(^^)。もう春ですから。

近所を散歩して見つけた「トマソン」。いちいち脚立で登るのか?


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