うまくいかない、もやもやする、どうしてわかってくれないのだろう…と思う時、たいていの原因はこれ。“自分ばかり見ている”

この春逝去された野村克也監督の本を3冊ほど読んだ。その中では「野村ノート」が秀逸だが、80年代のプロ野球を知る人には「負けに不思議の負けなし」は“うなずきの本”である。ほんまおもろい。下巻にあるエピソードが一番気にいった。
野村選手は入団4年目で本塁打王になって、得意満面だった。ところが翌年、大スランプに陥った。打率は2割3分、ホームランは低調。素振りをし、特打を繰り返したが上がる気配がない。眠れないある日、支援者の実業家と食事をした。明治生まれの爺さんである。人生訓を聞き流していると、ふと、目が覚めた。爺さんは言ったー
「ノムラよ、世の中すべては相対なんだぞ。私の専門ではないバッターとピッチャーも同じことじゃないのか……」
その時何かが弾けた。野村選手は、それまで「打つ側の立場」しか思いを抱けなかったのだ。投手はピッチングマシンではなく、考えながら投げていた。いくら特打をしてもダメだったのだ。その足で本屋をハシゴして打撃理論の本を買い漁った。メジャーリーグの強打者、テッド•ウィリアムズの本にこうあった。
「ピッチャーにはクセがあるものだ。私は大リーガーのピッチャーの80%が次に何を投げようとしているか見抜ける」
開眼した野村選手は、投手の心理を読みだした。投手の癖を見抜く訓練もした。やがて投手が振りかぶった時、アンダーシャツから見せる「腕の筋肉の形」で握りがわかり、球種も見抜けるようになった。
あらゆる仕事も、あらゆる暮らしも、すべては相対である。相手がいるから自分がいる。それを人はしばしば忘れる。得意な時も、スランプの時もそれを忘れて、自己中心に考えていっそうドツボにはまる。
逆に、相手のことばかり考えてドツボにはまる人もいる。あの人はこんな人だ、あんなこと考えている、自分はどう対応すればいいのか…いわゆる鬱はこんなところから始まる。だがそれもまた「自分のことしか考えていない」病である。相手はたいてい、ほとんど何も考えていないのだ。あなたの自意識が相手の虚像をつくり上げているだけだ。その場合の処方せんは「鈍感になること」である。
話をもどそう。では、どうしたら「自分を消す」ことができるだろうか。相手から世界を見ることができるようになるだろうか。
ひとつ、胸に迫る話を聞いた。ある若者が心にもやもやを抱いて、アフリカ大陸を歩いた。1日何kmも歩く、無謀とも言える徒歩旅行だ。ある村について、それまでしてきたように、ある家で一宿一飯のお願いをした。快く迎え入れてくれた。食事の時間になった。アフリカのワンプレート食「ウガリ」がメニューだ。歩いて腹を空かしていた若者はばくばく食べた。うまいうまいと。だが子供たちは悲しそうな顔をしていた。なぜだろう?と思っていたら、あるじから食事を止められた。
ーもうそれ以上食べないでくれ。家族の夕食がなくなってしまった…
ああ!自分は、この貧しい人びとから食を奪ってしまった!と若者は激しく恥じた。生涯忘れられないほど、恥じた。
心の底から自分が愚かだと思い、それを受けとめる素直さがあるならば、人は相手の視点を受けいれることができるようになる。心の底から人のために働こう、人のために尽くそうと思い至れるのであろう。僕はそこまで悟りはないので、伝聞であるのが申し訳ないが、きっとそうなのだと思う。
僕は買いに走ってはいないが、今のコロナ騒動でトイレットペーパーやマスクを買い占めた人は、買えずに困った人の存在を思い抱くだけでもいい。コロナに普通のマスクは無力だが、花粉症には絶対必要なのですよ。愚かなことをしたと反省してほしい。それだけでも明日から変われます。
郷さんは、
どんな時にも心に「愛」がある。
読者に届けたい「愛」がある。
ギスギスしている今の世の中に、
とっても必要な、
今日のブログでした。
いつもありがとうございます。
なんかコロナにいろんなことを、
試されている気がしますね。
私もコロナに負けず、生き抜きます!
MIMOさん、ありがとうです。
僕には愛する心はあるのですが、どうも一方通行でねえ…^^;;
ともかくコロナには負けずにいきましょう。
歌のコンサートはどこもかしこも中止で、あなたもさぞがっかり
されていると思いますが、僕の予想では4月に入れば収束に
向かっています。諸々の情報をつきあわせてまず間違いないです。