もしも道に迷ったら。

僕は、ムラムラしたりクヨクヨしたりした時に、次の文を「声を出して」読むことにしている。力がみなぎる。実際のところ、昨日も読んだ。

1)わがままに徹すること、そうであるしか責任をもつことはできない。自分がほんとうにどうしてもやりたいことは何か、どうしてもこのようにしなければいられないというやり方は何か。それがほんとうにわかったら、いやわからなくてもよい、まるごと全体の自分が、ほんとうにどうしても感ずるなら、全く自分勝手にやってみることだ。そうする外に自分が生きている実感、生き甲斐は生まれてこない。

2)自分の感じている一番大事なものが、他人に通じようが通じまいがそれは二の次のことだ。他に通じさせようとしする一切の妥協、卑劣なおもねり、愚劣なサービス精神は、自らを損なうだけでなく、観客を侮蔑し愚弄する以外のなにものでもない。この生々しい強烈ないのちの花火だけが、観客の中に新しく何事かを起こしうる唯一のものであろう。ほんとうには自分がやりたくないことを、自分がやるべきことのように偽って、やむを得ないこととしてやることこそ、人間最大の罪悪ではないのか。

3)人間のために、国家社会のために、階級のために……。そんなことはみんなうそっぱちだ。自分自身のために……それに徹することこそ、ほんとうの生き方だ。そこから生まれた人類•社会•階級でない限り、根なし草でしかあり得ない。必ずいつか挫折するしかないであろう。

4)すべてのこだわりを捨て切ったところで、(無•空)……ということも、自分自身に徹底的にこだわるところから出発しない限り、生きるエネルギーを失った空疎なものになりかねない。ほんとうに生きるためには、堂々と自分自身にこだわり、徹底的にわがままを通すことだ。

5)他人を偽ってもよいが自分を偽るな、他人を傷つけてもよいが自分を傷つけるな。しかし自分が自分であるために、一番大事な何かのためには、自分を偽ろうが傷つけようが、それはまったく差し支えない。そうするしか、自分が自分であり得ないからである。

6)完璧……なんて空疎なことばであろう。人間のやることで、およそ完璧なというものがあるはずがない。あるはずのないものをあるかのように思うことは、明らかに欺瞞だ。またもしもそのようなものが仮にあったとしたら、それはおよそ退屈極まりないものとなるであろう。もう生きることにおいてなすべきことが、すべて終わってしまうからである。

以上、「一つの願い」と題された野口三千三氏の文である。50年ほど前の雑誌に掲載されたもので、初出の媒体はあるパントマイムの公演パンフレットだということだ。感想をひとことでいえば、すべてのことは「自作自演」だ。自作自演だから、自分が感じたものを演じればいい。人生とはそういうものだ。

ちなみに僕は2)節が一番すきだ。ここで力をもらえる。一読して一晩寝たら自分の道にもどってこれた。昨日まで考えていたことをやめて、今日は自分らしく、自分なら書けることを発想できた(と思う)。自分のために、自分の感じていることを、完璧を目指さずに、嘘をつかずに、通じなくても構わないので、書いてみたいと思えた。

まだまだ修行中である。


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