「マルチな才能を発揮する」人がいるが、たいていはひとつのことさえ満足にできんのにすごいものだ。先日聞いたある医師のマルチタレントぶりも凄い。医学部に入ってから法律家を目指したというのだ。
氏は頭脳明晰ゆえ、あまり強い思いなしに医学部に入ったのが災いしたのか、医学がピンとこなかった。先人が積み上げた細かい知識を覚えるだけだし、何しろ医学部に入ると、将来はほぼ医者になるしかない。道を誤ったとオチていたある日、書店で手にしたのがコンメンタール。法律の逐条解説本である。それを開いて即座に思った。
法律はクリエイティブだ!
条文をいかに解釈するか、罪人をいかに裁くか、公平とは何か…法学には価値観や思想が反映され、そこには創造の余地が大きいと感じた。医学部に通学しながら、独学で一次の短答試験にパス。合格率10%の狭き門に2年連続である。諸般の事情でその先は挑戦せず、おとなしく医者になったが、氏はこうも言っていた。
「法律と医学のダブルライセンスをとらなくてよかった」
見得でも謙遜でもなく、ヘタをすると中途半端になるからだという。たとえば医師免許と弁護士免許の両方を持つ人は、結局どちらの人でもなくなる。「医療安全担当」のようなポストに就く。それは現場の医療者でもなく、安全の専門家でもなく、どっちも生かしていない、ダブルゆえに生かせないというのだ。
なるほど……となると、マルチの才能には「幹」があって「枝」があるべきなのか。
「幹となる才能」があって、それをより強いものにするのが、第二第三の才能だとしよう。確かにその医師も、後年携わった医療訴訟や病院経営では、法律の知識が役にたったことがあった。世の中を見回しても、営業職でも理系の素養があれば説得力のある提案が作れるし、市役所の職員でもコスプレができれば市の観光PRもできたりする。
まちがってはいない。だが作家兼ロックミュージシャンをどう理解すればいいのか?政治家になる俳優をどう理解すればいいのだろうか?その答えにはなっていないと思う。
そこで閑話休題。
ぼくはかつてマーケティングリサーチやコンサルティングの仕事を長くした。それもあって、ベトナム人留学生相手に就活支援でマネジメントやマーケティングを教えており、先日も次の就活講座のプレゼン資料を作っていた。そこでハタと気づいた。
ぼくはプレゼン資料は文章より早く作れる。
内容もすぐに思いつくし、迷いなく進められる。マイクロソフトのOS開発話やサイゼリヤの起業話をしてやろう、なんてすぐに思いつく。文を書くより早いし、スラスラできる。創作文修行で呻吟しているのとは大違いである。もちろん「マルチ」と呼べるほどの才はなく、ただ「寄り道」をしてきただけだが、それでもそこにはある真理がある。
まず自分は「おもしろがろう」としてきた。
なんかもっとおもしろいことないか、もっとエキサイティングなことができないか、と考えては新しい提案を作り、調査し、実行プロジェクトを組んだ。挙手して海外駐在もした。結果として「飽きる前に」違う仕事に移ってきた。すべては「おもしろがるために」であった。
もうひとつある。ぼくは手作りが好きでノコギリのこのこ本棚も作ったが、子供の頃を振り返ると「プラモデルを読む趣味」があった。
プラモデルキットの箱の側面に書かれた解説文を読むのが好きだった。戦車や戦闘機のモデルの取扱説明書には、戦争のゆくえや登場する将軍たち、その武器の開発背景などがあった。作るよりもそれを読む。キットの製造元の田宮模型が発行する「タミヤニュース」には、モデル化する上での取材や苦労話が書かれており、布団の中でボロボロになるまで読んだ。
好きなことには、その人がほんとうにやりたいことの本質が隠れている。ぼくなら「おもしろがる」「なんでも読む(そして書く)」である。冒頭の医師なら「クリエイティブになる」である。
ひとは無意識のうちに、勉学やスポーツや仕事など、さまざまな方向から、「自分の本質」を育て、また強めようとしている。それがマルチ活動の真髄である。
あなたは何だろう。そこに向かって今まで何をしてきただろう。マルチや寄り道を思い返してみませんか。
どんなマルチをしようとも、無意識下の作用があって、形を変えただけで同じ方向に向かっている。だから遠慮せずに、どんどんマルチになるべきなのだ。春ですしね。何がウケるかなどとヨコシマなことを考えずに、純粋に好きなことをやれば、それは無意識のうちに「あなたの目標」を目指している。あなたの本質を強くしていくのである。

コメントを残す