書家 榊莫山の幼き日の思い出話がある。家は江戸時代からの古屋敷で、祖父は書が好きだった。「ワシが死んだらこれをやる」と高浜虚子と河東碧梧桐の短冊を孫の莫山に見せた。それらは売ったらあかんぞと釘を刺された。それから、ふすまの絵を指さした。そこにはこうあった。
「人皆直行(ひとみなちょっこう)、我独横行(われひとりおうこう)
祖父はさらにいった。「人のまねはするなちゅうことや。自分のやりたいことをせなあかん」そこから莫山のトレードマークにもなった、蟹の横歩き図が生まれていく。
20代から才能を開花させ、書壇を登ったが、学んだ師の死去を機に書壇から野にくだり、自分の書くべき書を探した。手本を王羲之ら書の巨人に求めず、野にある道標や歌碑、看板など名も無き人びとや歌人の書に求めた。虚飾を剥ぎ取る生活をもとめ、作品も「一文字」を好んで書いた。土という文字は、地面の下から芽が地表を突き破る象形であるが、その生命を蘇らせようとした。

また莫山は絵も上手く、絵に文字を落とす作品も多く描いた。「土」といった1文字作品がアートで、絵の作品がコマーシャルと言えるのだろうか。

書壇を降りたとはいえ孤高の作家を気取ったわけではない。書壇とは別の会派をつくり、小学校で書道や英語も教え、大学で教授にもなり、NHK他でテレビにもよく出た。作品は酒のラベルなどにも多用され、けっこう商業的な人物でもあった。テレビの画像や写真ではいつも笑っている。独特の髪型といい、自然体の着流しといい、独特の美学がある。
「莫山つれづれ」という晩年のエッセイのタイトル通り「つれづれ」なる人間性に引き付けられる。それはどこからくるものか?といえば、彼が好んだ江戸の三人の禅僧のライフスタイルからだろう。とりわけ良寛である。
良寛は江戸時代後期の禅僧、歌人、書家である。その生涯は凄絶なまでに高潔さを求めた修行だった。10年間、厳しい禅の修行に耐え、寺の書庫で本を読み、書を学んだ。師匠の死後どうするか迷い旅に出た。四国を歩くと「僧もどき」ばかりがいた。お経も説教も金品のため、檀家からいくら銭を集めるかばかり考えていた。そんなもののために修行したのではない……と良寛は自分を孤絶に追い込んだ。

この良寛の厳しい顔がそう物語っている。莫山は良寛の生き様を真似たのだろう。
莫山も既成の権威ではなく、野にお手本を探した。昔の人がやってきたことをみつめた。だがそうして書いた書はなかなか売れなかった。その頃、2歳半の息子を病気で亡くした。茫然として大和の室生寺を訪ねると、その五重塔でお経を唱えているお婆さんがいた。般若心経だった。そのときから、自分を救うためにお経を唱え、般若心経をひたすら書いた。それが展覧会の作品になっていくと、売れ出した。
売れだしたのは、買い手にとって「救い」がそこにあったからだ。買い手つまり鑑賞者が、心の底から求めるものに莫山の文字や絵が触れたからだ。
芸術には技術が必要であるが、それより先に自分の孤独や悲嘆、弱さを見つめ、もがいて戦う自分の姿を見つめ、ポンと突き放して見れるようにならねばならない。みんなやっていることだよ、そこではみんなわかりあえるんだよ、だから力を抜いてごらん、上からみんなや自分が見えるようになるように、と。見えたことを伝えるために、技術を磨くのである。

しかしそもそも、なぜ蟹は横歩きするのだろうか?直行の方が早いのに、なぜジグザグと横歩きするのだろうか?
それは「前をよく見るため」ではないだろうか。
たいていのひとは、目標をただひたすら正面から見据えて、まっすぐ求めてゆく。それが合理的だし、短時間で到達できるからだ。だがひとたび目標に到達できたと思えば、それは「薄っぺらい」ものだった、とならないか。まるで化粧の上手な女性のように、正面から見た顔は美しいが、横顔はそうでもなかったとか。
横歩きをすれば、目標を前から横からつぶさに見れる。すると目標の良し悪しも、レベルも、真贋もわかる。目標を見る自分も見えてくる。生きるとは前をよく見ること、単純なのである。(以上)
*僕は榊莫山という人がとても気になって、これまで数冊の本を読んでいる。このブログは、前回投稿したブログを書き直しました。
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