原初生命体になる!2020年

体操理論で知られる野口三千三氏の「原初生命体としての人間」(岩波現代文庫 2003年)を読んだ。野口氏の名著「野口体操•からだに貞く」の理論編といってもいいだろう。

野口氏は東京芸術大学の体育教授を務めながら、日々体操を考え、言語論を紐解きつつ、独自の体操理論を形成した。野口理論のコアにある野口体操の真髄は、次の一文に凝縮されていると思う。

人間のすべての働き(からだの動きにかぎらず、精神的な働きを含めて)の良否は、肩や頸の柔軟さによって決定される。(「原初生命体としての人間」P31)

腹膜呼吸をしながら、上半身をゆらゆらと脱力する。足の裏を床にしっかりとつけて、地球を感じながらやる。次に腰から上半身を前に倒し、ユラユラさせつつ肩や頸をほぐしていく。やがて自分のからだの痛いところや凝ったところがわかりだす。吐く息が肩や背骨、頸の内側に入るように感じられれば、肩や頸を「液状化」させることができる。これが真髄であろう。これができると人生が変わるからだ。

人間のあらゆる働きにおいて、肩や頸に力が入りすぎ、緊張することは、最も大きな障害であり、そこを徹底的にほぐすことによって、文化生活によって疎外された心身の「すこやかさ」をとりもどす手がかりとしたいところである。(同著P28)

呼吸は「吐くこと」が重視される。腹膜呼吸で吐く10秒、吸う3秒、保つ2秒、その繰り返し。その説明にあたる「阿吽の呼吸」の話がおもしろい。阿は「吐く息」のことで、梵語の第一字母の音訳で、日本語では五十音の初めの音である。「吽」つまり「ん」は最後の音である。だから阿吽の呼吸とは「最初から最後まで一致する」という意味になる。一致とは人の中では「心とからだ」であり、自然の中では「人間と自然」である。

ところが人間は自然を乱開発し、破壊してきた。外部の自然保護ができない人間が、内部の「自分という自然」を保護できるわけがないと野口氏はいう。自分のなかの「自然の歪み」を正すところから生まれたのが野口体操なのだ。

このユニークさ、骨太さは昭和にしか存在し得なかっただろう。いまどきは「こう書いたら売れる本」ばかりになった。本書を下敷きにして「軽い読み物」を書いてベストセラーを飛ばす作家もいる。それでいいのか。出版も病気なのだ。現代人の人々の不健康さを嘲笑うかのような、野口氏の激烈なる一文を引用しよう。

自分の感じている一番大事なものが、他人に通じようが通じまいがそれは二の次のことだ。他に通じさせようとする一切の妥協、卑劣なおもねり、愚劣なサービス精神は、自らを損なうだけでなく、相手を侮蔑し、愚弄する以外の何ものでもない。自分が今、ここで、ほんとうにやりたいことをしていること、それ以外の別のところに、自分のいのちがあるはずがない。(中略)人類のために、国家社会のために、階級(闘争)のために……そんなことはみんな嘘っぱちだ。人のためにということが偽りなのだ。自分自身のために……それに徹することこそ、ほんとうの生きかただ。そこから生まれた人類•社会•階級でない限り、根なし草でしかありえない。必ずいつか挫折するしかないだろう。ほんとうに生きるためには、堂々と自分自身にこだわり、徹底的にわがままを通すことだ。(同著P232)

その通りだと感じた。自分が正しいと思ったことを自分から始めて、誰がなんと言おうとずっとやり続ける。経済も市場もニーズも関係ない、人類なんてもんも関係ない。ただひたすらわがままにやり続けよという。でないとエネルギーは結晶しないのだと。

だが同時に、野口氏のいうのは、自分中心の個人主義ではないとも感じた。そこを間違って読み取ってはならない。野口氏は「自分自身のためにやれ!」と言いつつ、そこには「大きな自分自身」が見える。ぼくなりに説明しよう。

野口氏が創案した野口体操は、「からだを開き、心を開く」ことを広めてきた。開くということは「人を入れること」「人に入ってもらうこと」である。それが、自分という生命体を生かすことであり、他人という生命体をも生かすことになる。

そもそも人間とは、自分だけを生かす存在ではなく、他者も生かす存在だからだ。人間という生命体は、その原初からそういう宿命をもつからだ。

それがわかるのが、母とのつながりである。

あらゆる人間が胎児であった。胎児は臍帯と胎盤で母とつながれていた。胎児と母の血液は直接交流しなかったが、細胞膜を通してお互いの血液は触れ合っていた。母と子は呼吸と栄養と排泄でつながっていた。母の温かくて柔らかな子宮で育てられ、膣道を出てきた。だれもがそういう生まれであるから、だれもが愛情を授けられ、愛情を注ぎかえすことができる。つまり、自分の命のあるところは、人のなかにある。人を生かすところに命があるのだ。

人はだれもが「母体内で膜を隔てて」原初からひとりぼっちなのである。その膜とは、人を自立をさせる神様の造ったカーテンなのだ。だれもが強いひとりになる「人生という舞台」に立たせて、上げられる「幕」なのだ。演じるのは自分自身、観客はつねに観ている。

幕を上げて、原初生命体となり、2020年を演じようじゃないか。

腱鞘炎になるほど、年末年始は研究に打ち込んでいました。


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