原稿のトンネルを抜けると、創作修行が見えてきた。それに入る前に整理しておきたいことがある。
内容や仕様が決まっている請負仕事にも、自分で全てを決める創作仕事にも、どちらにも共通して大切なことがある。言われた通りやって自分は殺すべきか?あるいは個性を生かすべきなのか?という判断である。ぼくが突き当たったことは、文を書く人だけでなく、手に職を持つ人にも参考になるだろう。
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ある依頼仕事があった。その仕事は、たとえていえば「味噌汁を作ってください」というものであった。入れる具もレシピもほぼ決まっている。ご飯に合う普通の味噌汁が注文である。とは言え、作ってみないと味は決まらない。それを作ってください、というのが依頼である。
だがその依頼に「ボルシチを作って」しまった。煮込んで味わいたっぷりのスープのような文を書き上げて、ハイどうです!美味しいでしょう!と提出したところ、「ご飯に合わないじゃないの!」と受取り拒否されたのだ。ぼくはバカである。
なぜバカなのか?
これが問題である。どちらかと言えば個性的な文を書くが、そこそこ文章術の力量がある(と言われる)。心の底にはそういう自負もある(らしい)。だから注文に応じてどんな文も書けるはずである。そう思っていた。ところが本人は注文に合わせたと思ったのに、我流という名の個性が出たのか、ボルシチになってしまった…
ああ!なぜ味噌汁のように、万人に読みやすい普通の文を書けないのか!注文どおり書けない、おバカな自分なのか!
しばし悩んで原因を追及しだした。まずそれは「性格」のせいだと思った。自分を殺せないプライド、あるいはオレオレという自己中心主義。それらはあるにせよ、ずいぶん退治してきたし、肩甲骨を柔らかくすることで心も開いてきた。それもあるが、他にも原因がないだろうか?
次に「文章術」という技術の問題だと思った。ぼくは我流の文章研究ゆえに普通の文ではないからダメなのだと。確かにきちんと作文指導をされたことはない。だが多くの名文に学び、文章読本も学んで、「普通の文を書こう」と心がけている。技術だけではなさそうだ。他にも原因がないだろうか?
あれこれ考えていた時、プロの歌い手をナマで聴く機会があった。たった1曲、中南米のクリスマスソングを日本語に翻訳•編曲した曲だ。
それが…凄かった!
しっとりと聴かせるパートから、情感たっぷりに絶唱するパートへ昇りつめていく。そのド迫力に圧倒された。抑揚たっぷりのメロディに感動した。喜びが湧き上がった。これは技術だけじゃない。この歌い手の声や表情もいいし、堂々とした立ち姿もいい。と、あれこれと考えているうちに、この歌になぜ感動したのか、思い当たった。
歌に合わせた歌を歌っている。
歌はクリスマスの讃歌、つまりキリストが誕生した喜びの歌である。喜びの歌を、歌い手は技術と情感で伝え、喜びが歌い手と聴衆の間に満たされるように歌いあげていたのだ。「聴衆とのインターフェイス」が生まれた。喜びという「接点」が創られたのだ。
インターフェイス(接点)を「目的」といいかえてもいい。目的とは「クリスマスの喜びを共有すること」である。同じ目的をもち、それが達成されるから、聴衆は感動できるのだ。
文に置き換えても同じことだ。読者とのインターフェイスに「目的」が必要なのである。技術にプラスして「読者に伝える何か」がそこにないといけない。味噌汁なら味噌汁が持つ目的を外してはならない。ボルシチにならないように、読者に対して厳しいまでの目的志向にならなればならない。ぼくは個性やプライドに囚われて、目的志向が薄れていたのだ。
もう一歩踏み込もう。目的とは「読者にとって具体的なこと」でなければならない。
たとえば、習慣を変える、生き方を改める、自己を見直す、革命に走る、国を守る、美しくなる…など、どんなことであれ「読者がしたいこと」あるいは「したくないがすべきこと」、具体的なものがあるべきだ。実用書には限らない。小説でもエッセイでも論文でも詩歌でも同じだ。それがあれば読まれる文、売れる文になる。
ここからがさらに大事である。
その「インターフェイス」と「自分の個性」を合体させることを考えるのだ。自分の個性を「読者が具体的にしたいこと」の中で発揮できるようにするのだ。インターフェイスを個性でくるむのだ。そうすれば認められる。そうすれば読まれて、しかも個性を殺さない文ができる。個性は殺さなくていいのだ。
生まれたからには個性を大事にしたい。誰にでもできる仕事で終わるよりは、自分にしかできない仕事をしかける途上で死にたいでしょう?
文の道は長く、過酷で、険しい…かな?^^
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