思いがけなく良文を読んだのでお裾分けしたい。メルボルン交響楽団の指揮者であった岩城宏之氏が、音楽に親しんだ思い出話である。彼の音楽好きは寝床で始まった。

戦争中、小学校5年生で骨膜炎を患い、入院してギプスをして寝ていた。退屈なので本をいっぱい読んだが、ふとラジオをつけると木琴の名手、平岡養一氏の演奏が聴こえてきた。平岡氏は滞米してNBCラジオで演奏会を放送していたが、日米開戦で帰国させられて、毎週日本で演奏しだした。そのラジオ放送を聴いた岩城少年は、身体じゅうが震えだした。

ーあの楽器を弾いてみたい。

音楽音痴の父(大蔵省の官僚)にせがむと、子供用の木琴を買ってきてくれた。ベッドに腹這いになって、楽譜もなく記憶を頼りに叩き出した。バチが2本あるということは、両手で叩くものなのか。こんな理解だった。毎週の平岡氏の演奏を聴いてはまねした。

不思議だったのがトレモロで、どうやって弾くのだろう?と聴きマネをして、両手をけいれんさせるように叩いていると、似たような音がつくれた。ただ右手の方が強くてバランスが悪い。そこで肘を寝床につけて、手首を柔らかくした。だんだんと弾けるようになるとハトポッポの曲では物足りなくなって、平岡氏のレコードを父に買ってもらった。A面が「ドナウ河の漣(さざなみ)」、B面が「軍隊行進曲」。聴いてはマネしたら弾けるようになってきたが、疑問がわいた。

ー平岡さんはぼくの木琴に存在していない音を出している。ファとソの間に音があるに違いない。

そう思うと、ドとレの間にも、レとミの間にも…と他に5つの「謎の音」があるはずだと感じた。父に言うと、楽器音痴なので、楽器屋に相談に行ってくれた。すると、歯の抜けたような鍵盤が上部についている「本格的な木琴」すなわち子供用ではない木琴を買ってきてくれた。推定した音は半音だったのだ。それを岩城氏は、

惑星の軌道のゆがみから、未知の星の存在を推論し、ついに天王星や冥王星を発見した人のようで嬉しかった。

と書いている。テープレコーダーなど無い時代、ラジオを聴いて覚えて弾いてみる。音を刻み込むとはまさにこのことだろう。こういう真剣さはテープレコーダーどころか、youtube時代の現代では味わえないものである。便利になることが果たしていいことなのかと思わせる。もうひとつ、岩城少年の逸話を続けよう。

岩城少年は半音だけではなく、楽譜というものの存在も知らなかった。

退院したものの学校には行ったり来たりで、家にいることが多かった。小学6年生の少年は、木琴を机の上に置いて毎日弾いていると、家の向いにあった幼稚園の女の先生が聴いていて、シューベルトの「軍隊行進曲」の楽譜をプレゼントしてくれた。初めて楽譜を見た少年は驚いた。

ーこれはなんなんだ?暗号か?

第一小節を理解するのに1週間かかった。やがてスコアを見ながら軍隊行進曲も弾けるようになっていた。戦時中に「音楽家になりたい」と決意をしたが、軟弱者扱いをされ、敗戦後に東京の学習院に転校すると、イナカッペとからかわれた。いじめである。カッペに「恥をかかせてやろう」という同級生たちが、岩城青年に全校生徒の前で「木琴をやれ」とはやしたてた。準備は2日間しかなかったが、彼は見事に演奏した。聴いた音楽の先生は、演奏後、壇上に向かって怒鳴った。

ー君はプロになれるよ。

以上、岩城氏のエッセイ「師をさがし続ける」から半分くらいを紹介させていただいた。ここに、いくつかの教訓がある。

第一に「好きこそものの上手なれ」。音楽が本当に好きで始めたことだった。世の中には親に「やりなさい」と言われてやる子が多い。いつか音楽から離れるものだ。第二に「真剣勝負」。一度だけ聴くラジオが先生だったので、高い集中力が養われた。第三に「繰り返し」。大量に繰り返すことが上達への道である。第四に「誰かが見ている」。真剣であれば必ず手を差し伸べる人が出てくる。幼稚園の教諭しかり、音楽の先生しかり(その先生は音楽家小出浩平氏だった)。すると次の道が開ける。

師とは人には限らない。ラジオでもあり、紙でもあり、いじめっ子でもあるのだ。もうひとつ、音楽音痴な父親の「子供の可能性をつぶさない姿勢」もあった。それが一番たいせつなのかもしれない。

 

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