「わたしをあなたの平和の道具としてください」教皇フランシスコが長崎市の爆心地公園で行ったスピーチは美しかった。
核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。(スピーチより引用)
そのとおりだ。平和を語る教皇のかたわらで、1機100億円以上する戦闘機をポンとアメリカに100機発注した政治家がいたのはどうかと思ったけれども。もっともカソリック教会も多くの人を迫害した歴史はあるのだが。
マアそれはともかく、教皇来日に関する素晴らしい記事を読んだ。ロイターの馬場麻由子さんの『ローマ教皇来日 日本が問われる「弱者への心」』。馬場さんは幼少期に失明したが、単身留学生としてアメリカの高校で学び、上智大学に進学した。学生時代にバチカンを訪れて祝福していただいた。その後、ロイターで記者として働いている。もちろん平坦ではなかった。
私の就職活動でも100社以上の会社から障害を理由に面接の予約すら拒否され、ロイターの就職試験は「最後の希望」だった。(記事より引用)
この記事のなかで馬場さんは、日本人は「困っている人」には大変に親切だが、それはどこか困っている人が「特別な人」あるいは「障害をもつ人」と特別視をする傾向がある、だが弱者に優しい教皇フランシスコは違うと書く。
教皇フランシスコは、人が「困っている」からでなく、「小さくされ」ているから助ける。弱者に対してためらわずに手を差し伸べるという自然な発想と姿勢がある。(記事より引用)
教皇がカトリック教会の「小さくされた人」という言葉を使うのは、危険なとき、苦しんだ時だけではなく、平時にも弱い人を思いやること、社会的弱者に直接関わることが大切である、という。「困っている」「苦しんでいる」からではなく、境遇や生い立ちや環境で「小さくされている」人を思いやれというのだ。
「小さくされた人」とは何か?どうやら「マタイによる福音書25章」にあるらしいので読んでみた。なんとなくわかったような気がした。ぼくはキリスト者でもなく聖書も少しの読書体験しかない。なので、解釈が間違っていたらゴメンナサイ。
この章の前半は、金持ちの主人が長い旅に出るとき、3人の使用人に財産を分けて出かけた。それぞれ5タラント、3タラント、1タラントである。5タラントの使用人は商売をして5タラント儲けた。2タラントの使用人は2タラント儲けた。だが1タラントの使用人は、ただ庭に金を埋めた。帰ってきた主人に使用人が報告すると、5タラントと2タラント儲けた使用人を祝福したが、1タラントの使用人には怒り、1タラントを没収して出て行け!といった。
なぜそう言ったのか?、人には天分があり、商売に長けた人もいればそうでない人もいる。それは神様がちゃんと見ていて、小さきものには小さなものしか与えない。大きな5タラントを与えられた使用人を妬んではならない。自分も大きくなるように小さなチャンス(1タラント)をなぜ使わないのか。それを2タラントにすればいいと。
小さき者はただ施しをもらうだけではダメで、失明された馬場さんのように努力せよ、というのだろうか。ちなみに1タラントとは結構な額で「小さくはない」。労働の対価6000日分で、1日1万なら6000万円である。ではそれを商売ではなく、埋めるのでもなく、誰かを助けるために使ったらどうだろう?
25章の後半は主人の体験話しである。主人が旅先で病気をし、裸で空腹なとき、宿を貸し、着せてくれて、水を食をくれた人がいた。一方、そうしない人がいた。そうしない人は「いつ、助けてくれとあなたは言いましたか?」と訊いた。言ってくれたなら助けたのに…ということだが、主人の答えはこうだ。「小さくされた人はいつも助けなさい」。
倍返しのご褒美とも、なくなるとも書いていない。ただ助けなかった者は永遠の刑罰を受け、助けた者は永遠の命を得るとある。教訓としては「主人がいない」ところでも良きことをせよ、また旅人(さまよい、道を探し、困っている人というイメージ)があればいつでも助けよ、常に自分で自分を律せよと、これがひとつ。
もうひとつ教訓がある。弱き人を「助けるのではない」。そういう上から目線ではいけない。弱き人のそばにいる、寄り添う、声をかける、つまり「共に生きる」ということなのだ。それが本当の意味でのノーマライゼーションなのだろう。
昨日の車窓からの富士は身支度がこれからだった。ぼくもまだ真っ白くなるまでには身支度をしないと(^^;)
コメントを残す